『創の軌跡 (PS4)』クリア後の感想と評価・レビュー

前置き

今後を見極める意味で購入した『創の軌跡』

去年の七月、PS Storeで買って放置していた閃の軌跡I:改をたまたまプレイして以来、私は日本ファルコムのファンになりました。冒頭 (のっけ) から人が死んでおり1、テンションが上がるBGM(この曲は今でもお気に入りです2)と共にガレリア要塞を駆け抜けるシーンは今でも思い出すことができます。閃の軌跡I/IIはテーマ性も良く、特にIIでリィンが慟哭するシーンは屈指の出来栄えでした3
そして、続けて閃の軌跡IIIをプレイし終えたところで、これはIVをプレイする前に過去作全部やらないとダメなヤツだなと察知し、約一年かけて4空の軌跡三部作/零・碧の軌跡をプレイして、その後に閃の軌跡IVをプレイし終えました。

我ながらよくやったと思いますし、過去作を全てプレイしたことで、一ファンとして作品を語る上での自信にもなりました。例えば、去年に私が閃の軌跡I/IIをレビューした際には過去作知識が全く無かったために、当時存在していた過去作との比較による批判は理解ができなかったわけです。今であればそういった批判も理解できますし、その上で再度述べさせてもらうと、閃の軌跡I/IIについての個人的な評価は全く変わっていません。良作だと思っています。I/IIについては。
空三部作、零・碧も本当に良い作品でした。私は特に零・碧を推したい。テーマ性が極めて明確で、プレイした後でも胸に残るものがあります。特に零の終盤、古戦場に向かうシーケンスの震えるほどカッコいいこと!5 リアルタイムでプレイしていた時は深夜だったのですが、テンションが上がり切ってしまい、結局朝方までプレイしたのを覚えています。

軌跡シリーズは本当に良作揃いなんですよ。再度書きますが『プレイ後に残るものがある』のです。テーマ性が描き出した主人公らの葛藤が、プレイヤーの心に欠片を残してくれるのです。 プレイヤーに消費されるだけで(あるいは、それのみを意図して開発されて)一ヶ月後には内容をさっぱり忘れられる作品とは違います6

……と、ここまで褒めちぎっていて何なのですが、上記文章で私が褒めていない作品があることにお気づきかと思います。そう、閃の軌跡III/IVですね。

散々言われていることですが、もうはっきり書きます。閃の軌跡III/IVについては、ファンである私も評価できませんでした。特にIVについては、褒めるところがほとんどありません。 まあ、IIIはまだ良かった。新しいキャラと共に、主人公であるリィンの先が語られたわけですから。グラフィックも向上して、新鮮味もあって、まだ褒める点もありました。

IVは酷かった。(好きな方がいたら申し訳ないのですが)空・零・碧・閃の中で唯一、ラストで全く感動できない作品でした。IIIから引っ張った展開で目新しさがほとんどなく、ラストで不要・冗長なエンディング分岐をさせてみたり7、分かりにくい謎の当て字を多用してみたり8、何度も同じ言い回しを使ってみたり9、悪い点は枚挙に暇がありません。 終盤のミシュラムでの絆イベントもコピペレベルで、見ていて辛いものがありました。そりゃ怒る人も出るでしょうと。 ラストに辿りつく頃には疲労困憊。挙げ句の果てに、残念バッドエンドです、トゥルーエンドを見るには追加でモンスター倒してラスボス再攻略してください、と言われてコントローラーを投げそうになりましたね。あれは一種のトラウマです。

そんな事情もあり、IVのプレイ後、直前にプレイしていた零・碧の出来が極めて良かっただけに、私の中で一種の疑念が生まれていました。曰く、「ファルコムは、今後どういう舵をきるのか?」と。
私はファルコムの思想はすごく好きです。音楽に力を入れていて、プレイヤーに一定の利用許可を出すほどの胆力もある。ゲームの起動時に邪悪で不快な『警告』メッセージ10を出すこともない。ゲームの細かな機能、UXも悪くない。GOG.comのような、プレイヤーの自由を尊重するDRMフリーのストアにもPC移植版をリリースしている11。こちらのことをよく見てくれているなと感じます。だから海外での人気が高いのでしょう。
しかし、シナリオを重視するRPGと謳っているからには、相応の質が必要です。伴っていなければ、『ゲーム』としてはやはり失敗ですから。

つまるところ、IVの路線で今後続けるつもりであれば、購入の継続も厳しいなと本能的に感じてしまったわけです。 そのため、今後もイースシリーズ含めファルコム製品の購入を継続するか――すなわち、ファルコムを応援し続けるかを見極める試金石として、今作『創の軌跡』を購入してプレイすることにしました。

前置きが長くなってしまいました。これらの事情を踏まえた上で、ここから『創の軌跡』についての感想と評価・レビューを述べていきます。

ご注意

発売されて間もないこともあり、ネタバレは最低限に押さえていますが、感想(批評)の都合上触れざるを得ない点がありますので、ネタバレが気になる方はクリア後の閲覧を推奨します。

ネタバレリスクを認識した上で、読みたい方はread more。

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浮かんだ泡のように

橙色と泡

深い、深い青色の空に、橙色がヒビとなって広がっている。晴れた日の夕焼けは誰もが美しいと思うだろうけれど、僕はその夕焼けが終わる直前――橙色が消え始める頃の空が、一番好きだ。朝焼けも同様に好きになれるのだろうけれど、僕は早朝に目を覚ます性分ではないから、いつも夕焼けを目にしている。

でも、どうして好きなのだろうと考えると、いろんな答えが頭を巡って、どう結論づけるべきか迷ってしまう。青色と橙色のコントラストが美しいから。消える瞬間に儚さを覚えるから。あるいは、何となく。どれも正しいような気もするし、間違っているような気もする。うん、きっとそれが答えなのだろう。ゼロイチで決まることではなくて、様々な感性と経験のうねりによって、好きという言葉が導出されるのだと思う。

ただ、橙色に光るヒビを空に見つけると、毎回思い出すことがある。それは、家族や、サークルの友人たちと一緒に行ったキャンプ場で見た、炭火の色だ。 夜の暗がりの中、黒色の炭の後ろでぼうっと光る橙色の光。炭のヒビからちらちらと炎も見えて、そこから発せられた光が周りにいる人の顔を照らす。照らされる顔は千差万別だ。笑う顔、渋い顔、儚げな顔。いろいろな顔と一緒に、炭火を囲んでいたという記憶。ぱちぱち、と炭が爆ぜる音も蘇ってくる。 空のヒビを見ると、その光景が頭の中に泡のように浮かんで、僕はなんだか温かい気持ちになるのだ。それは僕にとって『好き』とは少し違う感覚で、言葉にするなら、いわゆる『幸せ』と形容されるものだと思う。……いや、もしかすると、『幸せになれるから好き』、なのかもしれない。

ふわふわとした、心地の良い幸せ。空の炭火は徐々に大きな記憶の泡となって、頭の中から外へ漏れ出して、僕を包んで浮かせてくれる。泡の中で僕は、纏っていた重苦しいいろいろを捨てて、裸の生身となって、炭火の向こうに見えた幸せを手にすることができるのだ。泡がそのまま空へ連れて行ってくれたら、僕は幸せであり続けられるのだろう。きっと、二度と戻ってこられないほどに。

でも、それは長く続かない。続かないのだ。空を見るのを止めても、しばらくは泡の中で生きていられる。けれど、泡は何かの拍子にさっぱり弾けてしまう。 きっかけはいろいろだ。テレビのニュース。人との会話。映画。アニメ。小説。泡の幸せは、ぱちり、という音と共に消える。残るのは、自分だけ。

泡から放り出された僕は、惨めだ。防具を失った冒険者が敵にボコボコにされるように、泡を失った僕は無防備で、現実の鋭さに耐えられない。矢のように、針のように、現実は僕を貫こうとする。それも手足ではなくて、自分が自分である証明、心を、現実が突き刺す。

悲鳴は上がらない。現実と過去の間では、救いはない。自身の過去を自身で否定することはできないからだ。同様に、現実は受け入れるしかないからだ。
悲鳴は上がらない。自分自身を見つめることは、自分自身の発見にしかならない。空に浮かんだヒビの向こうには、自身の憐憫しか残っていないからだ。

分かっている。分かっているのだ。安易な救いは許されない。僕は精神を病んでいる。でも、それでも、僕は生きる道を選んだのだ。 だから、もし、『幸せになれるから好き』が真なのだとしたら、僕の泡は、橙色のヒビは、汚い自己愛でしかないのだろうか。

とすれば、空に大好きなヒビを見つけたとき、僕は一体何を思えばいいのだろう。

夜、昼間の温もりがかすかに残る部屋でベッドに倒れて、まどろみの中で、僕はずっと考えている。 深い、深い青色の空に、ヒビとなって広がる橙色のことを。二度と戻らない、ずっと幸せで、とても大切な、自身の手垢にまみれた過去のことを。

今日、就職先を決める

就職と子供心

就職活動も終わり、長かった大学生活も末端が見えてきた。モラトリアムは閉じて、人は地を蹴って進む。蝋で固めた翼を広げて、それが溶けぬ夜のうちに、月へ向けて飛び立たんとするのである。

私は私自身に問いかける。

――夏が過ぎて冬を越えて、桜の蕾が何度膨らんでも、
私の中の子供心は、そのままでいてくれますか。


実のところ、私にとって、就職自体は特別なものではないのだ。

私にはやりたいことがある。思想がある。人間一人が為せることには限界があるから、企業という組織と協力して目的を達成したいと考えている。よって、就職自体が嫌とか、大学生活が失われてしまうという悲しみとか、そんなものはほとんど考えたことがない。 働くのが嫌だという言論の裏に動物的な滑稽さすら感じるほどに。『働く』とは人間社会と関わっていくということであり、すなわち『働く』の反対は『何もできない』である。『何もできない』ほど苦しいものはない。社会を恐れ布団で悶えて死んでいくくらいなら、いっそ外患誘致罪にでもなって極刑を課せられたほうがずっと良い。

ベンチャー企業でのアルバイト経験もあって、少なくとも志望している業界の範囲においては、社会がどのように動いているのか人並み程度に理解しているつもりだ。内定も複数いただいているので、後はどこが一番私の思想に適しているのか、各社インターンで見聞きした実情を加味しながら、自身と相談して決めるだけになっている。 ぶっちゃけた話、給与にもさほど興味がない。必要量だけあればよい。だが、一般に給与が高いということはそれだけ企業が社員を意識しており、つまり私の思想の実現というゴールへの近道である可能性が高いというだけの話だ。

さて、このように先へ進もうとする心がある一方で、私はその隅から、儚げに隙間風が吹くのも感じている。綺麗に張ったはずの障子に穴が空いているような、滑らかに積もった雪の斜面の中から雪を押しのけて狐が顔を出すような、むず痒くも可愛げのある、不思議な風だ。

その名を、子供心という。


コントロール不能な存在、つまり子供というのは恐怖である。同時に、何物にも代えがたい煌めきでもある。天真爛漫で、悪戯っぽく、疲れを知らぬほど活動的である。 それこそが子供の特権であり、存在意義に他ならない。仮に子供が全て理知的であったなら、人類はとっくの昔に絶滅しているだろう。人間にとって、理知の究極は自殺であるからだ。 大人が何故死なずに生きていられるのかというと、子供心があるからである。姿形は大人になろうと、その精神性、三つ子の魂百までとも呼ばれる心的本質は簡単には消えない。だからこそ死なずにいられるのである。煌めきとはそういうものだ。

だが、安心はできない。もしそれが失われ、現実と理知が直接対決しなければならなくなったとき、人間というものは自動的に負けてしまう。この世は不平等で、理不尽で、安易な救いを認めないのだから。そして、この世で暮らすうち、様々な要因で子供心は擦り減らされていく。例えば、私は大学三年生の夏、三日三晩一切動けなくなったことがある。あらゆる時間軸におけるこの世の万物に絶望し、食事も喉を通らず、ああ自分はここで死ぬのかとすら思ったものだ。 あの時、私の子供心は死にかけていたのである。幸い、当時は夜にだけ子供心が戻ってきてくれたおかげで何とか持ち直せた。

だが、同じことがもう一度起こったとしたら、残念ながら、私は次こそ死ぬかもしれない。子供心が減ることはあっても、もはや増えることはあるまい。私は既に子供ではないのである。私が医師から定期的に処方されているスルピリド錠が、客観的に私の状態を裏付けてくれるだろう。 故に、私が――いや、私の子供心が――危惧するのは、就職というきっかけによって、その心が致命的なまでに磨り減ってしまうのではないかという点である。 私の精神は強靭ではない。思想の強さでは負ける気がしないが、その癖打たれ弱い。学問的に言えばHSS型HSPで、俗語で言えばヘタレである。 突っ込むのは得意だが突っ込まれるのは苦手だ。

そんな私が就職によって心を擦り減らすことは想像に難くない。しかし、私はむしろ就職を望んでいる。だからこそ、子供心は隙間風となって私の前向きな精神にぶつかってくるのである。 子供らしい、何とも健気な抵抗ではないか。私はこの子供心を大切にしたいと思う。一方で、就職以後の生活に私自身が耐えきれるのかはやはり疑問であった。


だからこそ、私は私自身に問いかける。

――夏が過ぎて冬を越えて、桜の蕾が何度膨らんでも、
私の中の子供心は、そのままでいてくれますか。

そう尋ねる私の声を聞いて、あどけない私の心は、くすくすと笑いながら次のように返すのだ。

――さあね。それが分からないからきっと、僕は子供でいられるんじゃないかな。

この回答に対して私が次の質問を投げかけられるのは、当分先のことになりそうである。 そして、私はひとまず就職先を決めなければならない。だがこれは、子供心に対する私の思案に比べれば、赤子の手を捻るくらいに簡単なことなのだ。

オープンソースという言葉の乱用についての不安

最近、特にオープンソースという言葉の乱用についてよく考えます。理由は単純で、その結果もたらされるFLOSSの未来が不安だから。

少し長いうえ、序盤から後半にかけての流れが冗長かもしれません。駄文かもしれませんが、自分の考えを整理するのも含め、一度自分の抱えている不安について書いてみます。


自由ソフトウェアの偉大さ

私は自由ソフトウェアの思想が好きです。私が物心ついた時には、用途問わず自由に利用できるライブラリやフレームワーク、ソフトウェアが既に多数ありました。さらに、プロプライエタリに匹敵、あるいは凌駕する偉大な自由ソフトウェアの数々を見てきました1。GNUのウェブサイトを読んで、素晴らしい思想だとも思いました2
GPLを好んで使うかはともかくとして、少なくとも、誰であっても差別なく自由に再配布、改造、組み込み、利用できるソフトウェアというのは、本当に価値があることです。そういった自由のあるものにこそ、人は協力するのが良いと考えています3

人がわざわざ車輪の再開発をする必要は(独占を防ぐ等の一部程度で)ほぼありません4。もし自由ソフトウェアがなければ、各々は自分たちで全て手作りする必要があったでしょう。あるいは、高額な金を払って何らかのライブラリやフレームワークを買うかです(かつてはコンパイラすら高額だったように)。結果として、実質的に開発できるのは膨大な資本力と体力がある一部の企業に限られ、それ以外の中小は末端の仕事しかできなくなります。そうなると、自由に誰もが参入して発展させられる場所はないでしょう。進歩の速度は低下し、ITの導入は高額になり、多くの人の興味を削ぐ。プログラミングをするのに鉱山を削ったり物資を調達する必要はほぼないにも関わらず、です。

自由ソフトウェアの概念が発達したおかげで、人々は多くのソースコードを大手を振って共有することができるようになりました。そして現在のように、誰もが気軽に高品質なソフトウェアを書ける世界ができたわけです。何より、自由ソフトウェアはその開発者が開発を止めてしまったとしても別の誰かによって開発を継続させられます。これは(A)GPLが目指した理想の一つです。プロプライエタリは作者の死後70年まで誰もメンテナンスできないのと対象的ですね。
その他にも自由ソフトウェアの利点は挙げられますが、とにかく、様々な利点を我々は享受しています。

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Flickr Proメンバーになった

Flickrは今、あなたの助けを必要としている

つい先ほどのこと。 何の気もなしにたまたまFlickrの公式ブログを閲覧していたら、『助けを求めている』というタイトルが目に飛び込んできた。一体何事かと記事1を開くと、Flickrを買収した親会社であるSmugmugのCEOによるもので、曰く「死に体だったFlickrを一度は救い、サーバーをAWSに移し替えて高速化するなど改善をしてきたし、今後も改善を続ける予定だけれど、肝心なお金がどんどん減ってきている。サービスの継続のためにも有料メンバーになって支援して欲しい」というものだった。

普段、私はこういった動きには冷静な方で「顧客に受け入れられないサービスは役目を終えたということなのだから、終了した方がお互いのためなのでは」と思いがちなタイプだ。 だが、今回については全く逆で「これはいけない、何とかせねば」とそのままFlickr Pro、つまり有料メンバーになってしまった。

なぜか。 それは、FlickrがCreative Commonsのような自由文化作品を広げようとする取り組みに対して大きな貢献をしてきたからだ。 Flickrには、Creative Commonsでライセンスされた自由に利用可能で高品質な写真の作品が多く存在する。これが失われるということは、人類にとって大きな損失だ。有力な代替は今の所存在しない気がする。有名なPixabayやUnsplashなどは不自由なライセンスを適用しており問題外だし2、そもそも当該サービスではライセンスに選択の余地がない。Flickrの代替としては全くふさわしくない。

私は自由が好きだ。Free of chargeではなく、FreedomとしてのFreeが好きだ。だから当然自由文化作品の思想は好きだし、こうした取り組みに大きな貢献をしてきたFlickrを応援したい。 それに、高価なデジタル一眼も持っていることだし、これをもっと使っていかないと勿体無い。Flickr Proになれば、写真を撮影して共有しようとする自分の意思をさらに強固にできるだろうという思いもある3。 そういうわけで、Flickr Proになった。

Flickr Proにはなりたてで、どれほど便利になったかはまだ検証しきれていない。が、アップロード枚数が無制限なのは目に見える特典だと思う。

このブログを読んでいただいている人の中で、自由を愛する、あるいは愛とまではいかないにせよ好きではある、という方がもしいらっしゃれば、年間約 $60 $70、つまり約 7000 8000円、寄付だと思ってFlickrに投げてやっていただけないだろうか。残念ながらソフトウェアの自由という意味では貢献にならないし、寄付にしては少し高めかもしれないけれど、写真という文化の自由を守るという意味では大きな意義があると思うのだ。

2020/01/22 追記

つい数時間前、Flickrからメールがやってきた。曰く、さらに価格を上げるとのこと。理由は上記の通りで、代わりに2020年にはさらなるサービスの改善を予定しているらしい4。 私は応援したい……が、少し不安でもある。フォーラムで意見を募っているので、意見がある人はそちらに参加するといいかもしれない5


  1. The world’s most-beloved, money-losing business needs your help, flickr blog, 2019年12月20日閲覧 ↩︎

  2. https://help.unsplash.com/en/articles/2612317-can-i-use-unsplash-photos-as-part-of-a-product-to-sellhttps://help.unsplash.com/en/articles/2612332-what-do-you-mean-by-compiling-photos-to-replicate-a-similar-or-competing-service が参考になる。端的に言うと、画像を競合サービスに使ってはいけない、そのままの状態で(あるいは変更をほとんど加えずに)販売してはいけないなどの制約が付いている。最大の問題は『競合サービス』『変更をほとんど加えず』の曖昧さだろう。例えば、GitHubにソフトウェアと一緒に画像をアップロードするのは良いのか悪いのか判断できない(ユーザーが画像をダウンロードできるという意味では競合と言える)。NG例として画像をクロールしてサービスを複製する行為が挙げられているが、それ以外については言及がない。コミュニティの感情次第でこの規定が乱用される可能性もあるため、個人的にはお勧めできない。不自由なライセンスだ。素直にCC-BYにしておけば解決できる問題なんじゃないかと個人的には思う。 ↩︎

  3. 何を隠そう、私は形から入るのが大好きな人間だ。 ↩︎

  4. What’s ahead for 2020, flickr blog, 2020年01月22日閲覧 ↩︎

  5. https://www.flickr.com/help/forum/en-us/72157712280985623/ ↩︎

耳鳴りと謙虚な精神

奴は突然やってきた

昨日の夜のことです。大学からの帰路、駅のホームにやってきた電車へ乗ろうとしたとき、それはやってきました。

キーンという高い音。耳鳴りです。みなさんもよく経験があると思います。まさか耳鳴りを経験したことがないという方はいらっしゃらないでしょう。 私だってそうでした。ふむ、耳鳴りか、と気にも留めず、さっさと電車に乗り込みます。 しかし、数分後にはすっかりこの耳鳴りのことが頭から離れなくなってしまいました。そう、一向に収まる気配がないのです。乗り換えのためにホームに降りても、別の電車に乗っても、とうとう自宅の最寄り駅のホームに降りても、耳鳴りは収まりません。
はて、困りました。自宅に帰って、お風呂に入って、布団に入ってみます。治りません。これは一大事だぞと、明日病院に行かねばと決心してその日は寝ました。

そして今日。耳鳴りは落ち着いていたものの、プールの水が左耳に入ったままのような、そんな違和感を感じます。病院へ行って聴力検査を受けたところ、予想通りというか、我が左耳は高音を聴き取ることができないようになってしまっていたのでした。つまり人力ハイカット状態で、これが耳の違和感と耳鳴りの原因だったわけです。
医師の方から直接病名を伺うことはできなかった1のですが、これが所謂突発性難聴なのかもしれません。二十代前半の私がそんな病にかかるなんて日頃どれだけストレスを抱えているんだと言われそうですが、そうですよ、私は健常者と比べて現代社会に抱く怒りと悲しみが人一倍強いのですから2、さもありなんと納得すらしてしまいます。

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『閃の軌跡I/II:改 (PS4)』プレイ後の感想

(恐らく)私にとって初めてのファルコムゲーム

RPGというのは始めるのが一番難しい。プレイを始めたらレベリングをはじめ、かなりの時間を費やさなければならない。プレイして即爽快感を得られるアクションや、読み進めるだけで様々な感動を得られるノベルゲームなどと比べると、どうしても時間的・心理的なハードルが高い。プレイにはある程度の覚悟が要求される。

そんなわけで、私は「一応興味はあるから、安いし買っておくか」と、閃の軌跡I:改をPS Storeで購入して以来、数カ月間放置しっぱなしであった。 購入した理由については、何となく軌跡シリーズに興味があったためと、単純に安かったためである。その興味といっても、「そういえば大昔にPSP版の空の軌跡の体験版をちょっとだけやったなあ1」くらいの理由だ。

が、諸事情あって、いい機会だから積みゲーを消化するかとようやく手を出したのが7月半ばのことである。 そして去る7月28日に至ったわけだが、なんと、Iどころか続編のIIをもクリアしたのが28日の午前のことで、たった二週間ほどで100時間以上を二作に溶かしてしまったのだから恐ろしい。つまるところ、ハマってしまったのである。

そんな経緯もあり、たまには感想記事というものを書いてみようと思う。

I/IIの内容を全て含むので、まだプレイしていない人は閲覧しないことを強く推奨する。

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