招待状


この短編は 百合SS Advent Calendar 2024 の 21日目向けに出すはずだったものです。

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

人生が色々あり、遅れてしまいました。色々、についてはまた記事にするかもしれません。


招待状


休日、土曜の朝9時。普段の私なら、怠惰に過ごすどころか起き上がることすらしない時間帯だ。
だが、今日の私は違う。惰眠を貪ることなく早めに起きた上に、実効性のない予定を妄想したりもしない。かといって活動的というわけでもない。

では何をしているのかといえば、天井を見上げている。汚れというほどの汚れもない、無味乾燥な白色の天井に向かって右手を伸ばしている。薄っぺらい、一枚の紙を握りながら。

紙の見出しは『Wedding Invitation』、平たく言えば結婚式への招待状だった。開催は今日の昼過ぎ、つまり数時間後に迫っている。
仰々しい筆記体の見出しに続いてつらつらと書かれたテンプレ文の後ろには、知らない新郎の名前と、見慣れてい・・た名前の二つが記されていた。
Misaki Nagahama——長浜ミサキ。28歳、女。旧姓は鷲崎。私と同じ国立大学の理系出身で、一つ年上。客観的に伝わる言葉で説明するなら『友人』となる。

なぜ元がつくのかといえば、それはもちろん、大学を卒業して以来——厳密には、在学中のある時期から——連絡がつかなくなったからだ。LINEには数年前から既読すらつかない。ミサキに私以外の友人は存在し得ないので、連絡手段は呆気なく消滅してしまった。彼女は所詮、社会に馴染めない不適合者だ。そんな人間と絡んでいた以上、当然想定していた状況ではある。

それに、あくまで私の目線からすれば、ミサキは友人ではなかった。私にとっては、ただの目的・・となる人間だ。それも、大学生活の暇つぶしとして。だから、卒業して数年も経った今となっては、もうどうだっていいこと……

と、そう思っていたのに。

「なんで今更」

招待状が届いて以来、5000回くらい繰り返した呪詛を改めて口に出す。うち3割は今日のものだが。
この招待状こそ、今日という貴重な休日を浪費させ、私を苦しめる諸悪の根源だ。どうやって私の住所を割り出したのかという疑問とともに、気持ち悪いから捨ててやろうと何度思ったことか。

しかし律儀にも、私は招待状に対して既に返事を出している。答えはイエス。「是非とも出席させていただきたい」と、返事のウェブフォームの備考欄にまでわざわざ書き添えて。なぜか。懐かしい顔を見たいから? 違う。私を裏切った、そんなクソ人間の結婚式とやらがどれだけ虚構に満ちているのかを、直々に確かめてみたかったからだ。

ではなぜ、私はため息をついているのか。なぜ今更、行くか行かないかに悩んでいるのか。
今更、なぜ。そんなこと、私にすら分からない。ただ、本番直前になって、行きたくなくなったという事実だけがある。論理とか倫理とか常識とか、そういった理性的な部分を全て二の次にして。
ウジウジと悩むのは嫌いだ。だからこそ、今の自分に腹が立つ。さっさと着替えて、袱紗を持って出席して、クソ夫婦の顔を拝んでバカにしてやるだけだ。分かっている。分かっているのだが。

私たちの間には、たった一言を交換する関係性すら残っていない。にも関わらず、彼女が一番幸せになるであろう場所への招待状だけは届いた。
最新のあらゆるAIですらお手上げの難問だ。ゆえに私はこの状況の論理的な解釈を、ずっと考え続けている。

ちなみに、招待状の末尾には、彼女らしい一文が添えられていた。


『全てを壊して 世界に平和を』

宇宙に浮かぶ地球の写真に付けられた大きな赤いバツ印。その真上に、ポップ体の白文字でデカデカとそう書かれているポスターを両手で持って、鷲崎ミサキは佇んでいた。

それが、私と彼女の出会いだ。しかし経緯を踏まえれば、出会いというよりもむしろ発見と表す方が適切かもしれない。


大学生活に慣れてきたのは、確か4月末くらいだったか。初めての一人暮らしに苦しんだり、理想と現実のギャップに目を瞑ることを覚えた遅咲きの新入生たちが、ようやく部活動やサークルというものに興味を示し始める時期だ。
私といえば、映像や本で得た大学のイメージを更新しきれないまま一ヶ月を過ごし、結局のところ大学というのも、所詮はつまらない人生の延長線に過ぎないのだということを肌身で実感しきった時期だった。講義、課題、そして就活。全てが自由なように見えて、実のところ自由じゃない。無数にある選択肢から「やってはいけないこと」を引いて残るのは、せいぜい課題と成績と奨学金の返済くらいだろうと察していた。

何が人生の夏休みだ、ただの懲役4年じゃないか。しかしまあ、部活動やサークルに打ち込むことで現実を忘れるのも悪くないのかもしれない。自分が周りにうまく馴染めるとも思えないが、場所さえ選べば流石に話し相手くらいは見つかるだろう。深い関係にならず、相槌を打ちながらヘラヘラと笑いあうだけの関係なら、何の責任もリスクも負わなくていい。

自虐的な思考を巡らせているうちに、一日の講義が終わったことに気がついた。チャイムが鳴るや否や、教習所だサークルだと周りが騒ぎながら部屋からドタドタと出ていく。私は最前列の席でゆっくりと筆記用具を整理し始める。一度だけ最後列を選んだこともあるが、黒板は見えない上に人の数や鬱陶しい私語も増えて最悪だった。最前列でノートを取りながら適当に頷いておけば、偉い先生に目をつけられることもない。向こうに顔を覚えてもらえたら、2年後の研究室配属も多少有利に進むだろうという打算すらある。

バッグに筆箱を収め終わって、ふと講義室から見える夕焼けを眺めた。この部屋は建物の6階にあるので、大学の周りを囲む木々の先に広がる街を眺められる。人工的に植えられたであろう木々に囲われた敷地の外には、コンクリートの灰色が広がっていた。私はこの眺めが好きだ。この殺風景な眺めは私に嘘をついていないから。

一方で、なんならこの景色すら嘘であってほしいとすら思っている。そうすれば、いっそ……

「くたばれ」

誰もいない教室に別れの挨拶をしてから、大学から徒歩10分にある下宿へと向かう。玄関口近くで駄弁る邪魔くさい男女の猿どもの脇を抜けて、威厳のない正門へ。道中、私と同じように帰ろうとする新入生に対して、それを勧誘しようとするサークルや部活の上級生らが束になって押し寄せていた。特に部員が足りていないらしいところは毎日必死だ。鬱陶しいし邪魔くさいことこの上ない。声をかけてくる男女を憎しみと共に睨みつけながら、さっさとその場を去るのがここ最近のルーティンだ。

が、今日についてはやや様子が違っているらしい。普段なら満遍なく散っている彼らが、今日に限っては固まって動いているように見える。私は不思議に思っていたが、少し歩いたところで理由が分かった。
勧誘する学生らの集団から少し離れた、正門の手前にある守衛室のさらに少し手前にある『カルトへの勧誘に注意!』と書かれた看板の真横に、何かを手にしたまま微動だにしない女の姿が見えた。門に近づくにつれて、彼女の姿と手元がはっきりとしてくる。彼女が手にしていたのは、地球の写真を使った手製のポスターのようだった。

『全てを壊して 世界に平和を』

門と夕日を背景にしながら、彼女は無言でポスターを掲げ続けていた。こちらに体を向けていることから、それが在校生に向けた内容であることは明らかだ。だが、その壊滅的なワードセンスに加え、隣に並んだ「カルトに注意」の看板を踏まえると、彼女がヤバい可能性は限りなく高い。案の定、彼女の周囲からは露骨に人が離れており、門を通る人の列に不自然な歪みが生まれている。前にいた男が「きっしょ」と言い放つのが聞こえた。珍しく同意見だ。

人流に乗って、彼女から一定の距離を取りながら通り過ぎる。過ぎる瞬間、チラリと盗み見るように彼女の顔を伺った。モデルのように整った顔立ちに長い髪、前髪はシースルーで、カルト信者にしては小綺麗すぎると感じた。しかしそれ以上に印象的だったのは、彼女の表情だ。

彼女には、おおよそ表情らしきものがなかった。マネキンのように無機質で、ロボットよりも人工的な無表情。向かう相手から明らかに侮蔑の目と暴言を向けられていながら、喜怒哀楽を一ミリも見せている様子がない。彼女からは感情が欠落しているのだと誰かに説明されたら、私は一切疑わずにそれを信じるだろうと思った。

ふと、彼女に表情を与えたらどうなるんだろう、と私は想像してみる。怒るんだろうか。泣くんだろうか。それとも、壊れたように笑い始めるんだろうか。

『全てを壊して 世界に平和を』

この陳腐な一文には、ひょっとすると大きな意味が込められているのかもしれない。この『全て』に、彼女が含まれているのだとしたら。そう考えると、私の中で久々に『面白い』という感情が湧き上がるのを感じた。

卒業するまでの間に、彼女へ感情を吹き込んで————完膚なきまでに、それを叩き壊してしまいたい。

つまらないと考えていた大学生活に、むくりと、目標と可能性が芽生えた瞬間だった。


学内で彼女を見つけるのは簡単だった。翌日の講義室や学食は彼女の噂で持ちきりで、どうやら化学系の学部の二年生らしいとか、いつも講義は最前列にいるらしいという話はすぐに掴めた。あとは化学系の学部の時間割を調べて、空きコマの時間を使ってその講義に潜り込めばいい。

さらに翌日の三コマ目。こじんまりとした部屋に大勢が集まっているせいで、人が放つ独特な匂いが鼻を刺す。元気のある新入生とは違い、二年生たちは物静かにゴソゴソと荷物を取り出したり、ノートパソコンを叩いたりしている。そんな状況でも最前列に座る人間はいない……彼女一人を除いては。

「どうも。見ない顔だね」

講義開始の5分前。私が何も言わずに彼女の隣へ座ると、彼女は教科書を眺めながらこちらへ挨拶をしてきた。

「こんにちは。私は別の学科なんですけど、化学系にも興味があって、今期から講義を取ってみようと」
「へえ、そんな珍しい人もいるんだ」
「そりゃいますよ。にしても、相変わらずむさ苦しいですね、この部屋」
「今日は湿度が少し高いからじゃない? 慣れの問題もあると思うけど」
「いやー、何度来てもなかなか慣れなくって」
「みんな最初はそう言うけどね。でも、そこから二通りに分かれる。一、講義中もずっと課題や内職をしているせいで匂いなんて気にならなくなる人。二、大学に飽きて部屋へ来なくなる人」

彼女はこちらへ顔を向ける。端正な顔立ちにも関わらず、その表情は人形のようにまっさらだった。ユニクロの無地のシャツと相まって、本当にマネキンみたいだ。

「私が思うに、あなたみたいな新入生・・・は、二の結末になると思う。どうかな?」
「……私が新入生って、よく分かりましたね」
「見ない顔だし、こんな雰囲気の子が一年以上も在籍するとは思えないから」
「喧嘩売ってます?」
「いいや。あくまで、正直な感想を述べただけ」

これは面倒だな、と脳内で舌打ちをした。もっと適当な人間と思っていたのに、どうやら割とキレるタイプらしい。精神をリセットするため、私は服を改めて整えながら椅子に座り直した。
まあいい、そっちがその気なら……

「『全てを壊して 世界に平和を』でしたっけ? あれを見て私、もう少し大学にいようと思ったんですよ」
「それはありがたい話だね。感銘を受けた?」
「いや、全然。ただ、面白そうな人がいるなあって。大学中であなた、噂になってますから。知ってます?」
「知ってる。でも、この程度の話題にしかならないんだなって、まあ、ちょっと失望してるんだよ」
「失望?」
「そう」

前髪を少しかき上げて、彼女は続けた。

「大学や学校って、社会からは一定切り離された特殊な空間でしょ。せっかく独立性があって、警察すら簡単には入ってこられないような場所なのに、今はみんなSNSだの早めの就活だの産学連携だの、しょうもない社会の真似事をして満足してる」
「……」
「だから、どれだけの自由人が残っているんだろうって、ポスターを掲げてみたんだけどね。結局、SNSと噂話のネタになるくらいでしかなかった。私に話しかけてきたのも、あなたくらい」
「はあ」
「しょうもない人間が多いと思わない? 大学なら、もっと底力のある、面白い人間がいるって思ってたのに。本当につまらない人間ばかりだった」
「……まあ、そうかもしれませんけど」
「『けど』?」
「先輩が憂いた顔でポスターを掲げてたのは、まさかそれだけがきっかけじゃないですよね?」
「まあ他にも色々あるけど、大きい理由としては、面白い人間を探したいというのが一番」
「ああ、なるほど」

微妙に予想とは違った方向で話が進んでしまって、私はわざとらしく大きなため息をついてみせる。

「センパイ。そりゃ、あなたが悪いですよ」
「私が悪いの?」
「間違いなく。60年代なら流行ったかもしれませんけど、今の時代にたかがポスターだけ掲げて安っぽい思想を語ったところで、誰も興味なんか持ちません。世の中、耐性ができちゃったんですから」
「補足させて。みんなそうやってすぐに時代、時代って言う割に——」
「だからさぁ、言わなきゃ分からないみたいなので、はっきり言いますが」

特別だと思っていたものが実はチープだったというオチとは。想定以上に時代遅れだっただけのマネキンにイラついて、私はやや荒立てた声で切り返す。自分の胸に広がっていた失望は、すでにほとんど怒りへと変換されていた。

「あなたはご自身を特別と思っているかもしれませんが、絶対に違いますから。今時どこにでもいる、全てを悟った気で何も分かってない、ただの冷笑系マセガキなんですよ。話聞いてるだけで耳が腐るくらいにつまらない。もっと斬新で面白い人間かと思ってたのに、ああ、時間を無駄にした気分です」
「……」
「仲間だって集まるわけないでしょ、あなたがそんなにつまらないんだから。SNSの方がまだ面白いんだと思いますよ」

怒りを一気に彼女へ吐き出し終わると、教室がしんとしていることに気がつく。ふと振り返ると、数人の訝しむような視線とぶつかった。あー、やれやれ。これはどうしたものか……

「じゃあ、私は出るので。お疲れ様です」

これ以上ここにいると面倒なことになりかねないと考えて、私はとっととその場を去ろうとする。持ってきたばかりの荷物を手にして立ちあがろうとしたところで、隣から腕を掴まれた。久々に感じた感覚に驚いて掴んできた手の方を見ると、

「……センパイ?」
「LINE」
「は?」
「だからLINE、交換して」

私の腕を掴んだのと反対側の手で、彼女はメッセージアプリのQRコードを差し出してきていた。この状況でQRコードを差し出してくるのも大概だと思ったが、そんなことよりも驚いたのは、彼女の表情だ。
何かが嬉しかったのだろうか。表情が皆無だったはずの彼女が、僅かにせよ笑みを顔に含ませて私を見つめていた。こうなるとマネキンではなく、テレビや映画で見るような、画面の向こう側にいるクール目の女優やモデルの顔と変わらない。

ドクンと心臓が大きく跳ねる。かわいい、と思った。脳と心に焼きつくくらい、ストレートに私の好みだったのかもしれない。

だから私は、本当に、この顔を——


彼女の名前は、LINEの連絡先を交換してから初めて知った。『ミサキ』というプロフィール名と何かの花のアイコンは、驚くほどに凡庸だ。

メッセージアプリでの会話は、一日に最低一回ほど行われた。例えば、以下のように。

『今週の映像の世紀、見ました? A K47のやつ。先輩は好きそうだと思うんですが』
『見てない。今レポートを書いているため』
『先輩のレポート提出期限、再来週じゃないんですか』
『期限よりも前に終わらせるのが私のモットーだから』
『クソつまんないこと言わないでください』
『そう?』
『だからレポートなんかやめてください。今すぐ見て』
『しょうがないな』

『見た』
『感想は?』
『悪くなかったけど、カラシニコフに媚びすぎてるね』
『クソつまんねえオタクみたいな感想』
『そう?』
『あの内容からその感想が真っ先に出てくるのが典型的キモオタって感じですよ。改めてください』
『部分的に理屈が分からないけれど、そういうものなのか』
『全人類がそう言うでしょうね』
『そう。じゃあ』

『意外と考証がされてて面白かった。オススメに感謝』


ぐちゃぐちゃにしてやりたい、という感情だけを胸に、私は都市の外へと飛び出す。

大学に入って数ヶ月が経ち、まだ11月だというのに、すっかり冬の気温になっていた。年々、秋という季節が短くなっていく気がする。10月半ばまで暑かったかと思えば、11月になって少ししたらあっという間に極寒だ。じきに四季という言葉も無くなるんだろうか。
しかしまあ、そんなことはどうでも良かった。人間、いつだって人生が問題だ。大学生活のつまらなさは、たとえ目的があったとしても変わるものじゃない。過ごしているだけで鬱憤が溜まり、むしゃくしゃした。何もかもを破壊したいという衝動に駆られた。それでも私がそうしないのは、ミサキがいるおかげと言える。準備を整え目的を達するまでは、現状を破壊するわけにはいかない。

ゆえに、私たちは夕闇の中、登山装備なしで山道を登っていた。大学から電車で片道一時間半、日中は観光目的で訪れる人もいる低山だったが、夕方を過ぎれば登山者はほとんどいない。寒い上に、低山とはいえ夜の登山は危険だからだ。夕日があるおかげで光源こそあるものの、あと一時間もすればすっかり暗くなるだろう。そうなれば、いよいよスマホのライトを頼りに進むしかなくなる。

そんな危険な夕夜の登山だが、二つメリットがある。一つ目は、危険と隣り合わせの背徳感と疲れの相乗効果により、魂を高い次元へ導くことができるという点。言い換えれば、ムシャクシャした時のストレス発散にちょうどいいということだ。
二つ目は、これが一番重要なのだが、登山口が電車の終着駅から近いという点だ。これがなければこんな時間から、というより、そもそも登山をしようというきっかけにはならない。適当に電車に乗ってさえいれば辿り着けるというのは、私たちにとっては何よりも重要だった。

「しかし、装備を持たずに登山なんて、危なっかしいことを考えるね。リンは」

息を切らせながら、隣でミサキがそう呟いた。暗くてあまり表情は読み取れなかったが、まあ相変わらず大した変化はないんだろうと思う。
ただ、こうして何度も会うようになって、彼女のマネキンのような顔に若干の変化が浮かぶ時があることに気がついていた。彼女の想定とは全く異なる状況を作り出すと、彼女の頬が僅かに緩むのだ。反対に、どれだけ意図的に怒らせたり悲しませようとしても、彼女の顔と感情は微動だにしないようだった。彼女の表情は、マネキンか、ごく僅かな微笑の二つしか存在しないらしい。それが、何もかもが凡庸で古臭い彼女を特別なものにしているといっても過言ではないと思う。

「夜の登山って、こう、大変だけど、でも、いいでしょ」
「いいって言われても、私には分からないけど」
「じゃあ、いや?」
「いやじゃないけど、『いい』って相対的な表現だから、何と比べればいいのかなって」
「でた、またクソつまらない発言。フロイトにでもなったつもりですか?」
「そういうわけじゃ、ない……っと!」

ミサキが段差を踏み外して後ろへ転びそうになるのを見て、私は咄嗟にミサキの腕を掴むと、斜面を背にして思いっきり引っ張った。しかしバランスを保ちきれず、後ろへ倒れ込む形で背中を打ちつける。思っていたよりも柔らかい衝撃だった。土のおかげで怪我をせずに済んだらしい。

「大丈夫ですか?」
「平気」
「なら良かったです」

倒れたまま、背中で一度大きく息をする。呼吸を整え終わったところで再度起き上がると、背中に少しだけ鈍いような痛みが残っていた。これくらいなら大丈夫だ。
一方のミサキは正面から斜面と接地したらしく、綿のコートに付着した土をハンカチで器用に払い落としていた。

「割と間一髪だったっていうのに、当の先輩は余裕綽々ですね。ここに来てまでわざわざハンカチですか」
「リンも使う?」
「使いませんよ。というか、そうじゃなくて——」

そこまで文句が出かけたところで、彼女の表情に私は驚き、思わず言葉が止まってしまった。

「先輩、ひょっとして」
「何かな」
「この状況を楽しんでません?」
「そうだね……リンはどう思う?」
「楽しいんでしょ、顔を見りゃ分かります」
「アハハッ」

ミサキは、声を出して笑っていた。陽が落ちてあたりが見えにくい状況でも、彼女の表情が輝いているのがはっきりと分かった。土まみれのコートを小さく震わせながら、大学の誰にも聞かせたことがないであろう笑い声を、他に誰もいない真っ暗な山の中で、ただ私たちだけが聞いていた。

「生きてるって、実感がしたんだ」

ミサキはしばらくの間笑ってから、ゆっくりと黒ずんでいく空を見上げて呟いた。

「誰の命令でも、社会的制約でもない。自然の力で、勝手に死にそうになった自分を眺めるとさ、ああ、私ってまだ生きてるんだって気持ちになる」
「はあ」
「生きてるんだよ、リン! 私たちは——」

ミサキがぐいと近寄ってきた。彼女はきっとアドレナリンで興奮している。可愛い顔がすぐそこにある。

ああ、壊すなら今だ! 今なら彼女を破壊できる! 言葉の刃をミサキの喉元に深々と突き立てられるはずだ!


  • 『周りがみんな死んでいるなら、生きる意味って何ですか?』
  • 『生きているのは先輩だけです。私たち・・・はみんな死んでます』
  • 『将来に希望なんてないですよ。生きても辛いだけです』
  • 『何ですか? 気持ち悪いです、近寄らないで』
  • 『そうですね、そう思います、先輩は何もかも全部正しいですよ』

ミサキを否定する言葉を必死で考えるが、どれもイマイチしっくりこない。傷つけるには十分かもしれないが、彼女の尊厳を破壊しきれない。私が満足できない。
彼女が泣き喚き、二度とこの世界で生きようと思えなくなるような言葉。私は、そんな言葉が欲しかった。しかし、なかなか思いつかない。ようやく手に入れた機会なのに、それをみすみす逃しそうになるなんて!

だがそこで、私はふと、別にこれが最後ではないだろうと我に返った。そうだ、落ち着いて考えればいい。彼女が心を許した今、あとはどうとでもなる。じっくり刃を研いで、もっといいタイミングで突き刺してやればいい。

そう脳内で結論がまとまって、私は少し距離を取って彼女が落ち着くのを待とうと、その場で一歩、二歩退く。私がしたのは、たったそれだけだ。それだけだったのに。

ミサキは私の行動に過敏に反応した。即座に彼女は立ち止まって、興奮した口ぶりから一転、呆気に取られた様子で黙ってしまった。浮かんでいた笑顔もまた、一瞬でどこかに消えた。これほどまでに茫然自失という表現が似合う機会はそうそうない。

「ごめん、柄でもないことを」

風とともに木々が揺れる音がしてから数秒後、ミサキはようやく、掠れるような声で謝ってきた。

「どうしたんですか?」
「そのままの意味だよ」
「ちょっと待ってください。すぐに落ち着くと思います。少し休みましょう」
「……落ち着く、ね」

彼女はかぶりを振ってから、俯いてため息をつく。

「やめだ、そろそろ下山しよう。これ以上いると流石に危ない」
「登り切らないんですか? 頂上まではもう少しですが」
「また今度にすればいい。お互い、どうせ暇だろうし」
「でも」
「悪いけど、気が変わった」

分からない。どうして、今更そんなことを言うのか。

それから陽が落ち切るまでの間に素早く下山を終え、大学の最寄り駅で別れるまで、ミサキは必要最低限の事務的なことしか口にしなかった。
何かミサキの機嫌を損ねたらしいということは私にも分かったが、それが何だったのかは分からない。ただ、分からない。

一歩退かずに、彼女に同調すれば良かったのか? しかし、それに何の意味があるのだろう。

いずれにせよ、ミサキと登山をすることは、これ以降一度もなかった。


それから、ミサキとはLINEでやりとりを続けたし、何度か一緒に外出もした。
彼女は時折マネキンではない表情を見せることもあったし、私が知らない情報、特に世界情勢についての知見を語ったりもした。しかし、登山の時に一瞬見せたような、明るい笑顔を見せることはなかった。

日数が経てば経つほど、もう少しなのに、と私は徐々に苛つき始めていた。あと少し、あと少しなのに。少し親密度を上げれば、彼女の懐に入り込める。彼女が私に笑顔で接するようになる。そうすれば、内側から突き崩すのは簡単だ。

さあ、登山の続きをしよう。間近でミサキが壊れていく様を眺めていたい。彼女が泣きながら私に許しを乞うのを確かめたい。

だというのに、人生や神様というものはどうしてここまで面白くないのだろう。


登山から半年が経って、季節が再び春に戻ると、ミサキは大学に姿を見せなくなった。オンラインでも音信不通になったのは、それから数週間が経った頃だ。突然連絡がつかなくなった日のことを思い出す度、私は腹立たしさのあまり落ち着いていられなくなる。

とはいえ、私にとって彼女は大学に残る目的ではあったが、最初に説明したように、決して友達と認識していたわけではなかった。だから、彼女が消えたこと自体が私に何らかの衝撃を与えてはいない。与えるわけがない。

だからこそ、彼女が完全に消える前に吐き捨てたセリフが、私はどうしたって許せないのだ。

『こういうの、もっと上手くやれると思ってたんだけどな』

最後の言葉がこれだ。馬鹿にしているのだろうか?


物思いに耽る私を遮って、スマートフォンのアラームが行きたくもない結婚式を催促してくる。数回目のリピートで堪えきれなくなり、半ば画面を引っ掻くようにして煩い音を止めた。画面のフィルムに爪の跡がうっすら残ったのを見て、思わず舌打ちする。

当時のことを鮮明に思い出したせいで、案の定、私の気分はすっかり悪くなっていた。一方で、彼女を何度か殴ってやりたいという怒りもまた湧き出てきた。私をこんな気分にさせた張本人には、何発か食らわせてやらないと気が済まない。

そうだ、今回こそリベンジしてやればいいんだ。今度こそ彼女を壊してやろう。泣かせてやろう。蔑んでやろう。私を裏切ったことを、徹底的に後悔させてやろう。
大衆の目の前で恥をかかせて、幸せな契りを断ち切らせて、この世界に希望なんて一つもないんだと教えてやる。
ああ全く、何が結婚だ。何が招待だ。何が『上手くやれると思ってた』だ。ふざけるな、ふざけるな。

その口ぶりじゃ、まるで私が、ミサキに壊されたみたいじゃないか。

「全てを壊して、世界に平和を……」

私は感情の勢いに任せてベッドから立ち上がり、招待状の不穏なフレーズを口ずさみながら、念のため用意しておいた小綺麗なドレスへと袖を通す。後で袱紗にピン札も詰めなければ。

人生の晴れ舞台。しかし、何度考えても、まさかミサキが結婚なんてするとは到底信じられなかった。何を考えて生きているのか全く分からない。
とはいえ彼女は美人だから、ウエディングドレス姿についてはさぞかし似合うことだろう。そうした美貌に惚れ込んだ男がいたのだとすれば、まあ頷ける話だろうか。相手が誰であれ、あのマネキンみたいな無表情についてはまだ貫いているんだろうけど。
ただ、もしもの話として。もしも万が一、彼女が登山で見せたような笑顔を見せたとしたら。

そうしたら、私は——


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