粘土


本SSは 百合SS Advent Calendar 2021 の 15日目になるはずだったものです。

遅れて申し訳ありませんでした。そもそも、二万文字はSSと呼んで良いのでしょうか? 私には分かりません……。


粘土


現代には二種類の人間がいる。自分の体を自分で創り上げられるやつらと、そうでないやつらだ。

一昔前まで、私たちは自分の体に苦しめられていたと思う。顔立ち、低・高身長、運動神経・反射神経らのコンプレックス。どれだけ世間が綺麗事を述べたって、自分自身はごまかせない。
中学校のときにあったボール投げの計測で、思ったよりかなり手前に落ちた私のボールを眺めながら、ドンマイだよと言いつつ苦笑いを浮かべた元クラスメイトの顔を今でも思い出す。気持ちを分かってますみたいなツラをしながら、まあしょうがないと言い切った教師を思い出す。薄ら寒いねちょねちょとした配慮。思い出すだけで吐きそうになる。全員、もう死んでくれてると嬉しい。

もちろん、当時でも体を改善する方法があるにはあった。けど、『一般家庭』の子供には限界がある。キラキラした最新の美容にはお金が必要で、持たざる私がちまちま努力して背伸びをしたところで、優秀な遺伝子の人間には絶対に追いつけない。体力と体型、友達付き合いのために始めたソフトテニスの部活動には、伸びしろも面白さも感じられなかった。適当にこなすだけの虚無のくせに疲れる。外部から来たコーチはガミガミとうるさかった。結局、現実なんてそんなものでしかない。
疲れてベッドに倒れ込み、電子のSNSに逃げ出しても――流れてきたキラキラした同級生の動画を再生した後、暗転する画面に映る自分の表情はひどく醜くて――当時の私は、自分自身を産み育てた両親を憎んだ。そして、両親を憎む自分の醜悪さに呆れた。

でも、今は違う。私は両親に心から感謝できるようになったし、自分にきちんと自信も持てるようになった。勉強・・の大切さを教えてくれたのは両親で、何より努力は裏切らないと知ることができたからだ。文句ばかり言って本気で努力しなかった自分は未熟だったなと思う。私は大人になった。それもきっと、周りよりも少しだけ早く。

例えば、国語の授業で習った文章のうち、気に入っている一節がある。

『精神的に向上心のない者はばかだ』。私も本当にそう思う。


暗い空間の中でそっと腕を伸ばすと、上から一条の光が差して、私の腕を明るく照らす。ほんのりと白く細い私の腕はまるで妖精のそれのようで、柔らかく繊細に輝いた。そのまま腕の角度を変えたり、関節を曲げてみる。不自然な点はなし。うん、我ながら見事なモデリングだ。ボーンも肌の質感も申し分ない。ただ……もう少し光り方を抑えた方がいいかな。輪郭と色ももう少しだけくっきりさせたい。このくらいの調整なら、パソコンを使わずにこの場でやれそうだ。

伸ばしたのと反対側の手で空中に軽く触れると、半透明のウインドウにいくつかのパラメーターとスライダーが表示される。私は伸ばした腕の近くまでウインドウをドラッグして移動させると、腕を凝視しながら慎重にスライダーのつまみを動かした。
ここのミス一つで、見栄えに大きな影響が出てしまう。偉い人曰く、神は細部に宿る。もちろんこの体にも。つまみをわずかに動かす度、腕は少しずつ輝きを失っていく。最初よりも四分の一ほど輝かなくなったところで、私はつまみから指を離した。

「……いい感じ」

思わず笑みが溢れて、私は調整の終わった腕を天へ突き上げた。か細そく美しくシミ一つない私の腕は、注がれる光を帯びて神々しく輝く。一昔前なら、ほんの僅かな人間にしか与えられなかった美を、今、私が手にしている。

さて、準備は万端。残るは実演だけ。今週末を使って調整を終えたこの体は、今回どれだけ話題を呼べるだろう。

輝く腕の先、繊細な指で空中を再度叩く。現れたワールド選択のウインドウには、数枚の写真と接続中のユーザー数が表示されていた。
21時12分、ビーチに6万3千人。草原に5万2千人。都会に4万5千人。他のエリアはそれ以下。
私は迷わず、一番ユーザー数の多いビーチの写真に触れる。
すぐに私の体全体に光が降り注いで、たちまち視界が白く染まった。私は目を閉じ腕を下げて、そのまま切り替えが終わるのを待つ。

数秒後、穏やかなさざ波の音がするのを感じた。日光も瞼越しに感じる。温度と風以外が見事に再現された常夏のビーチの真ん中に私は立っている。
思ったとおり、すぐに周囲から黄色い歓声が飛び始めた。理由なんて考えるまでもない。いつものことだ。

「……おい、あれ本物のミサキじゃね?……」
「……マジで初めて見た! モデルのクオリティやべーな……」
「……リアルの芸能人よりも数倍は可愛いよな……」
「……ねえ、一緒に写真撮ってもらおうよ……」
「……待てよ、相手は有名なモデラーだろ? 俺らになんか応じてくれねえって……」
「……でもミサキはすっごいフレンドリーって噂じゃない? 彼女が作ったモデルってみんな使ってるし……」
「……しかもまだ高校生なんでしょ? それでプロ顔負けってすごいよね……」

私はゆっくりと瞼を開けて、青空へ孤を描くように腕を上げる。再調整した新しいボーンとシェーダーのデモンストレーションだ。キラキラとした日差しを受けて、私は砂浜に舞い降りた天使のように見えていることだろう。

でも、この天使は生まれつきじゃない。私は天才じゃない。
現実で美貌も体力もない私は、周りを見返すために脳みそを働かせるしかなかった。テレビのVR特集を見て可能性を感じてから、貯金を叩いて買ったヘッドマウントディスプレイとお古のパソコンの前に張り付いて、何度徹夜をしたことか。
現実じゃ私は勝てない、リアルなんてクソ喰らえ。『先行者利益』という言葉を知ってからは、高校のたるいリモート授業の合間にも3Dソフトを触った。おかげで数カ月後には、一通りのモデリングと簡単なシェーダーを書けるようになった。
結果、この新しい世界で、私は同年代の誰よりも……いや、大人も含めてプロすら目を見開くくらいに、美しく完成されたモデルを創ることができるだけの能力を身につけられた。

だけどこれは、絶対に『才能』なんかじゃない。『努力』の成果だ。
遺伝的にすごい体だったわけでもない。両親が金持ちだったわけでもない。身近に自分の理解者がいたわけでもない。私には何もなかった。

私は時間をかけて、文字通り自分の力だけで、自分の体を高品質に創り上げられる側の人間になったのだ。

だから、

「あっ、あの」

私の目の前に、ワールドのあちこちで見かける無料配布フリーモデルの男の子が駆け寄ってきて、

「すみませんミサキさん、突然ごめんなさい」
「実はその、ミサキさんが、アバターのモデルを配ってるって聞いて」
「周りの友達はみんな専用のパーツを持ってて、僕だけ持ってなくて、馬鹿にされてるっていうか」
「うち、お金ないから、買えなくて」
「一個だけでいいんです。僕にも、分けてもらえませんか。お願いします」

初対面の相手に図々しくそう言ってきたとしても、私は決して怒らない。

私はいつも通り、小さく微笑んで返事をする。

「うん、いいよ」
「本当ですか!」
「もちろん。VRではみんなキレイになってほしいって、私は思ってるからね」

想像以上の応対に驚いているのか、男の子は呆然としていた。私は指先でウインドウを表示させ、保持しているデータ一覧から赤いマントを羽織ったヒーローのモデルを選択する。

「はいどうぞ。長く使ってね」

送信ボタンを押して、男の子にモデルのデータを送ってあげた。数秒のラグの後、眼前の不出来なモデルはぎこちない動作で飛び上がる。

「ありがとう!」

次の瞬間、男の子はカッコいいヒーローに変身していて、私へ一礼してすぐさま走り去っていく。彼の背後では、物理法則をシミュレートしたマントがひらひらと揺れていた。
それを見送りながら、私は嫌な顔ひとつせず手を振る。当然、周囲はますます沸き立った。

「……あんな子供にも優しくするとか神対応すぎるだろ……」
「……ねえ、私もなんかもらえないかな……」
「……話しに行ってみようぜ……」

モデル欲しさか、はたまた物珍しさか、次々とこちらに群衆が近寄ってくる。感動した、すごい、さすがと口々にしながら、男、女、動物、植物、物体たちが蠢く。彼らは多種多様で、それでいて――

――ああ、どれも、見事なまでに陳腐な既成品ゴミばかりだ。

爽やかに設計した自作・・の美形な笑顔の裏で、私は別の笑いをこらえるのに必死だった。

こいつらに、体を創る能力はない。創られた体を受け取るだけのやつら。金を払うことでしか自身を表現できないやつら。自分の体の権利すら持つことを放棄したやつら。
流行りに合わせて姿を変える、トレンドと群れることしか能のないやつら。

この世界では努力するだけで自分の体を創り上げることができるというのに、そうしない哀れな動物。

だからこそ、かつてクラスメイトが私にそうしたように、気取った困り顔を可愛く演出しながら、私はこっそり笑ってやる。

私は、努力しようとしない怠惰なこいつらとは違う。与えられたものを与えられたままにしか使えないこいつらとは違う。

『精神的に向上心のない者はばかだ』と、私は心で呟く。私が小説の主人公から学んだのは、馬鹿に馬鹿と言ってはいけないということだ。
VR世界の住人はそういう正論を嫌う。そうでなきゃみんな努力してるはずだ。しかし、まさにそれを馬鹿と言わずして何と言えばいいのだろうと、私は疑問に思っている。


私はいくつかの高品質なモデルを、改造や再配布も可能な規約で無料配布している。ダンピングだとSNSで騒ぐ同業者もいたが、私のものよりも品質が低いことをやんわり批判したら思った以上に拡散されて、それきり彼らは黙ってしまった。相当バツが悪かったらしい。

私がモデルの配布を始めたきっかけは、VRの住人たちにモデリングを知ってほしかったからだ。改造やパーツの再配布を許せば、いろんな人が自分らしいモデルを作るものだと思っていた。今思えば、当時の私はピュアすぎたと思う。

実際は違った。配布したモデルはほとんど変更なしで使い回され、時には転売されたりもした。改造を試みた人は少数で、そういう人はそもそも前から自作のものを使ってたりした人ばかりだった。
思えば、私だってひと昔前までは努力を諦めていた側の人間だ。当時の私なら、便利で綺麗な既存のモデルをそのまま使うのを全く厭わなかっただろう。自分じゃ何もできないなんて、可能性を自ら潰していただろう。
水は低きに流れる。世の中はそんなものだ。

最初はかなりがっかりしたものの、今では自分でも割り切ることができた。過去の自分の写し鏡のようでもあるし、自分への一種の戒めとしてちょうどいい。それでも、住人の多くが私のモデルをそのまま使って楽しげに過ごしているのを見ると、突然規約を変更して利用できなくしたらどんな反応をするんだろうと想像する。やっぱり怒るのだろうか。悲しむだけだろうか。だとしたら、笑える。

今もモデルを配り続けられているのは、いつの日かそうやって笑うのを楽しみにしている自分がいるからかもしれない。


高2の夏休みは虚無だ。リモート授業が多いせいで休みにありがたみなんかないし、同級生との絡みもほとんどない。画面越しに会話することは何度かあっても、テンプレの笑顔と当たり障りのない会話しかしない人間を相手にするよりかは、いろいろな表情ができる3Dモデルを相手にしている方がずっと心地よかった。

大学進学を目指す層は、夏休み中でもオンラインで勉強会を開いたりしているらしい。私もなぜか声をかけられたけど、断ってしまった。今のご時世、いい大学に行ったって何の意味があるのか分からない。教師や大人は高校生のことなんか何も考えてないくせに、都合の良いときだけ進学や就職とかグダグダうるさい。どうせ大学もリモート授業ばかりだし、それなら3Dモデルをいじってた方がずっと生産的な気がする。
それでも、努力するのは偉いと思う。


ホノカと出会ったのは、そんな夏休みに入ってすぐのことだ。

その日、深夜1時過ぎにベッドの上で目を覚ました私は、リビングでコップ一杯の水を飲んでから何の気なしにVR世界へログインした。
見慣れたWELCOME画面を抜けて、各ワールドのログイン人数を眺める。時間が時間なだけに、日本のサーバーへのログイン数はかなり少ない。それに、一番人気のワールドがビーチではなく草原のワールドになっていた。ログインしている層の好みなんだろうか。こういうところに差が出るのは面白い。
チヤホヤされたい気分ではなかったので、身バレしない無難なモデルを使うよう設定を変更しておく。そしてワールドを選択すると、視界が一瞬ホワイトアウトして、すぐに夕暮れの自然が眼前に広がった。くるぶしあたりまで伸びた黄緑色の草は見渡す限りの丘陵を覆って、時折小さくさらさらと揺れている。草原のところどころには大きなアカシアの木が何本か生えていて、濃いオレンジの空の手前で薄黒く佇んでいた。草原のワールドはかなり広いせいか、ログイン人数の割に視界へ入る人はまばらだ。猫耳をつけたモデルたちが草原を走り回り、見たことのあるキャラが何体か丘の上で寝っ転がっている。誰も私には目を向けない。
各ワールドの1日は現実世界の2時間周期だから、あと十数分待てば夜だ。夜の草原は暗すぎてあまり面白くない。微妙なタイミングで入ってしまったなと若干後悔する。でもまあ、朝まで少し待つだけだ。
私は近くに生えている木へと向かう。木にもたれかかりながら、ネット記事でも読みながら時間を潰そうと思った。

少し歩いたところで、アカシアの幹の裏側に誰かが座っていることに気がついた。別の木に向かおうかと一瞬思ったが、暇してる相手なら雑談しても悪くないだろうと考え直す。私は幹の向こう側にまで歩き、営業スマイルを作ってから座っている誰かの方へくるりと向き直る。

そこで、ああ、息を飲む、というのはこういうことを言うのだなと思った。VRの映像を見ているだけなのに、現実での呼吸が数秒間止まるほど、心臓がドキンと跳ね上がった。

座っていたアバターのモデルは、小学生が描いた絵のようにぐちゃぐちゃだった。小柄な体に不釣り合いなほど大きな頭は上に尖った大きな肩に飲まれ、腕と胴体は細くなったり太くなったりと一貫性がない。頭からはのっぺりとした長い栗色の髪の毛が垂れ、モデルは肌や衣装を意図してか、薄い橙、白、茶など複数の単色テクスチャで包まれていて、古臭いポリゴンよりもずっと不自然な色合いだ。足はバグったゲームのように地面に突き抜けていて、呼吸に合わせて不規則にブルブルと不自然に振動していた。明らかにモデルの設定がおかしい。素人でももうちょっと調整するだろう。

だから、気持ち悪い、という声が口をついて出そうになって、私は慌てて歯を食いしばった。自分の立場を考えなければ。不適当な発言は今の自分の身を滅ぼしかねない。

眼下のアバターの顔が少し動いて、ようやく肩と分離する。髪は張り付いたように頭に連動して動いた。性別は全く掴めない。輪郭が歪んだ細い目がこちらを睨む。それでも瞳は澄んだ青色だった。

「なにか?」

確実にこちらよりも年上、しかし若い女の声が私にそう問いかけてくる。私はすぐさま思考を回して、最も無難な言葉を返した。

「あの、よければモデルの作成をお手伝いしましょうか? 実は私、ミサキっていうモデラーで、そこそこ腕には自信があるんですけど――」
「この世で一番クソな人間ってどういう奴らか分かる?」
「は?」
「この世で。一番、クソったれな人間は。どういう奴らかって訊いてるの」

想定外に返答が遮られて、私はたじろぐ。VRを始めてからというもの、自分の発言がここまで無視されたのは初めてだった。

「……さあ、知りません」
「そういうつまんないのはいらないからさ、ちゃんと答えてよ」

困って適当に返すと、今度は明確に挑発するような返事が来てムッとした。勝手に話しかけてきた上に話も聞かないなんて、一体こいつは何なのか。
そっちがその気なら、私も悪意を混ぜて答えてやる。

「さしずめ、才能がある人間でしょ。私みたいにオリジナルのモデルを使ってる人って少ないですもんね。嫉妬ってやつですか?」
「フン、全然分かってないね。ま、イマドキのアイドル・・・・高校生なんてそんなもんかぁ」
「はあ? 偉そうに。なら言ってみなよ、あんたが嫌いなのは何なわけ?」

苛ついたせいで、つい素の自分で答えてしまう。しまったとは思ったが今更引き下がれない。眼の前のガタガタのクソ手抜きモデルを使っているくせに傲慢な、この女の態度が私にはどうしても許せなかった。こいつだけはこのまま帰すわけにはいかない。
左右が非対称すぎる不気味なモデルの顔を思いっきり睨みつけてやると、彼女は細長い口を歪めながらはっきりとこう答えた。

「答えは簡単。自分の姿を一から自力で作ろうとしないバカか、あるいはそれをそそのかすクソバカだよ」

私は数秒間、その回答が意味するところを頭の中で考えた。そして、彼女が不機嫌なのは私が彼女のモデルに口出しをしたのが原因だと気がついて――自分の中の怒りは一瞬で霧散した。
ああ、そういうことだったのかと合点して、この人への申し訳なさが私の心を埋め尽くす。一方で、目の前の不出来すぎるモデルを使っていながらそれを発言したという事実を改めて直視して、私は、思わず吹き出してしまった。

「……勝手に笑いださないでくれる?」
「ハハ、ごめん……なさい。いや、でも悪い意味じゃなくて、こんなモデル使ってるくせに気が合うなって」
「は?」

不機嫌と困惑を半々にしたような声を彼女が漏らす。それがさらに面白く感じられて、どうにも笑いが抑えられない。不思議だ。

「フフッ、大きな声じゃ言えないけど、私も完全自作モデルフルオリジナル派で。自分の体は全部自分で作らないと意味ないって思ってるんです。だから気が合うなって思ったけど、モデルからは真逆の印象を受けたから。あなたみたいな自作主義者、ほとんど見たことなかったし」
「へえ。でもさ……君はモデルを配ってる有名人でしょ? つまり、自作の・・・借り物モデルで満足してる大多数の人をゴミって思ってるんだ?」
「いやまあそれは、一概には言えないけど――」

内心思っていたことをズバリ突かれて、取り繕う言葉が口から流れ出る。それを聞いて彼女は片目をさらにすぼめながら、クックッと愉快そうに笑った。明らかに私の言葉を信用していない。

「あーはいはい、そういう答え方する時点でガチだって分かる」
「いやだから、ちょっと語弊が」
「もういいよ、そういうフリはさ。疲れるでしょ?」
「……」
「私も疲れるの」
「…………フフッ」
「正直、私も君を気に入ったんだよね。だから、そういうこと」
「まあ、そこまで言うなら」
「よし。ならよろしく、ミサキ様・・・・
「ウザッ」

そういうわけで私はこの日から、とことん性格の捻じ曲がった彼女、ホノカと仲良くなった。


それから、ホノカとほとんど毎日会うようになった。といっても別に連絡先を交換したわけでもない。はっきり分かっているのは、深夜に草原のワールドに行けば確実に彼女がいるということだけ。
私は適当に他事をやった後、日付を跨いでしばらくしてから草原へ出かけるのが日課になった。それでも長くは滞在しない。一つの場所に留まらず、ふらっと寄ってふらっと去るのが私の過ごし方だ。入り浸って噂が立ち、ファンや記者らにマークされたりすると面倒だということを私は身をもって知っている。それは何より、彼女に迷惑がかかる。

ホノカはいつも、出会ったときと同じ木の下に座っていた。離れて観察していると、朝焼けを背景にサラサラと木の葉が風に揺られる演出をしても、その下の彼女のモデルは一切の反応をしないのが分かる。時折他人がホノカの近くを通りかかるが、手足が地面に貫通するバグった挙動やモデル自体が不気味なのか、ホノカを一瞥することはあっても話しかけることは絶対にしなかった。もちろん、ホノカも他人に話しかけることはない。まるでゲームのNPCの世界のように、時間が進んでいるようで進んでいないようものに思えた。

私が近寄ると、ようやく彼女は頭をこちらに向ける。口角を上げて彼女が口を開くのを見ると、彼女周辺の時間がようやく進みだしたように感じた。

「今日は何人にたかられた?」

開口一番、楽しそうな口調でホノカは私へ尋ねてくる。私はホノカの隣で木の幹に寄りかかって答えた。

「5人。まあ、いつもと同じようにモデルを配って終わりですけど」
「大人気有名喜捨モデラーになると、下々の要求も激しいねえ。かわいそうに。いっそ見捨ててあげた方が、彼らも自立するんじゃないの」
「それは絶対ない。文句をSNSで喚いて、次の依存先を探すだけですよ。あの人たちには中身がないんです。いいものがあったら乗り換えるだけ。体を体って思ってない」
「なおさら見捨てたくなるね。どうして続けるわけ?」
「なんでしょうね、ノブレスオブリージュってやつかも」
「ふーん。……で、本音は?」
「……いろんな人が私のモデルで塗りつぶされていくのを見ると、すっとするんですよ」
「征服欲みたいなもんか。いい趣味してる」
「ホノカさんにだけは言われたくないです。ここでずっと座ってるのも、通り過ぎる既成品モデルを眺めて馬鹿にするのが好きだからでしょ?」
「そうかもしれないけど、そんな言い方されるのは心外だね」

軽く挑発すると、ホノカは拗ねたようにそう言い返してきた。何度かホノカと話してみて、彼女は思ったよりも繊細だということを私は知っている。多分今のは本当に嫌だったんだろう。
とはいえ、こういう意地悪をやめる気にはなれない程度に彼女の言動には日頃から棘がある。そして何より、むっとした時の彼女の顔は不出来なモデルの割によく表現できていて、私にとって一番お気に入りの表情だった。

「冗談です」
「ヘン。とはいえ、自作してないモデルで格好つけてるやつらには反吐が出るけどね。最近のくだらないブーム知ってる?」
「……猫耳?」
「そう! どいつもこいつもブランドの猫耳生やしちゃってさあ。一年前まで『NFTアイテムなんてただの金儲け』とか言ってたやつらが、ちょっとジャンルと空気感が変わっただけでこのザマだよ」
「確かに、最近は装飾すら自作する人少ないですよね」
「ホントだよ。そんなことやってるから意匠とか既得権益に飲み込まれるのに、今度は自由がないとか騒いでるんでしょ」

ホノカが大げさにため息をつく。とてもクリアな音質で彼女の諦めと怒りの感情が伝わってきた。

「どうしようもないよね、本当にさ」
「意外と単純だと思いますよ。あいつら、何も考えてないだけですから」
「どうだか」

そう言ってホノカは天を仰いで、私も木の上の方を見つめた。葉の隙間越しに見える空は、すっかり快晴の青色に染まっている。


ふと、ホノカにこう尋ねてみたことがある。

「ホノカさんって、なんで草原にばっかりいるんですか?」

爽やかな緑に囲まれた開放感ある草原は気持ちいい。とはいえ、VR世界には他にもいろんなワールドがある。しかし、ホノカを他のワールドで見かけたことは一度もない。
んー、と彼女は頭を傾けてこちらを向くと、逆に私へ質問してきた。

「ミサキは普段どこにいるの?」
「定住はしません。追っかけられると嫌なので」
「なら、一番好きな場所は?」
「うーん……常夏ビーチかな」
「海かあ」
「あ、今ビーチをバカにしましたよね」
「いやいや、そうじゃない! そうじゃなくって」

珍しく手を動かしてまで慌てて否定するホノカを見て、私は少し驚いた。

「まあいいですけど、それがホノカさんが草原にしかいない理由と関係するんですか」
「あー……そうだな、強いて言うなら」

ホノカは一度会話を止めて、草原の向こう側に目線を移す。その表情からは普段とは違うアンニュイさが感じられて、その細い瞳を横から思わず見つめてしまう。

「多分ミサキって、本物の海を自分の目で見たことないでしょ。東京湾とかじゃなくてさ」
「そうですね。小さい頃から、東京でずっと過ごしてきたので」
「旅行でもないんだ?」
「親がそういうの好きじゃないんです。安心安全な公園とかしか行かなくて……私も退屈だったので、小学校の後半からはさっぱり」
「なるほど」
「……そんなにバーチャルの海はダメなんですか?」

私は疑念半分、羨望半分の気持ちでホノカにそう尋ねてみる。映画みたいに、晴天の下、さらさらとした砂を踏みながら波打ち際を素足で自由に走り回ることができたなら、それはきっといいんだろうなとなんとなく思った。

「経験したことないものには思いを馳せられない、だからそれは何でもいいわけ」

複雑そうな顔でホノカがそう答えた。美麗な風景の中ではしゃぐ自分の姿を想像していたせいか、その反応が不思議で仕方がない。いつもの冗談っぽい皮肉かと思って、私はさらに質問を重ねる。

「えっと、どういう意味です?」
「虚像が虚像だと気付いたら、一気に冷めるでしょ?」
「んん?」
「つまり、私の中で草原はまだ虚像じゃないの。海は違う」
「……わっかんないですよ、それじゃ」
「いつか分かるよ。多分、そのうちね」

手で口を覆ってあくびをしながら、ホノカは小さく笑った。


左右両方の手でそれぞれマウスを操作して、新たに作っているモデルの脚を整える。右手は主な操作、左手はホイールを使った細かい調整。一度慣れてしまうと、もう普通のマウス一本には戻れない。
3つのディスプレイに映し出されたワイヤフレームといくつものパラメーターを睨みながら、歪んだ部分を直し形状を整える。ズームインとズームアウトを繰り返し、ふくらはぎからつま先までの太さ、長さ、動き、曲線を何度も確かめては修正する。以前は面倒だと感じていたこうした作業にも、今ではどこか誇らしさすら感じていた。神は細部に宿る。洗練された美。妥協のないなめらかさ。

ふと画面の右下にある時刻を見ると、既に20時を回っていた。モデリングでまた一日が終わったのかと思うと、満足と不満足の両方を感じる。充実はしていたと満足する一方で、別のことも少しやってみたいという不満足さもまた残っている。最近は動画や漫画も全然チェックできていない。最後に外へ出たのも一ヶ月前だったか。
とはいえ、一日は24時間しかないからどうしようもない。趣味のモデリングの手を抜くのは信条としてありえない。
ため息がてら、私は画面から目を離して、机の端に置いてある木製のボードと粘土を手に取る。それはモデリング中の脚の形をしていた。モデリングの参考資料として粘土は効果的で、よく使っているのだ。何と言っても、私のような学生の財布に優しいのがいい。

乾燥した土粘土の表面はザラザラとしていた。私は近くの棚から霧吹きを持ってきて、その表面に何度か噴霧する。再度表面を押すと、ぬめる感覚と共にわずかながら変形した。水をもっと与えれば、もっと変形させることもできるだろう。

3Dモデルは粘土だ。何度も形を変えられる。思うままに、好きなように、自由に。そこには無限の可能性がある。

でもリアルの肉体は違う。金と運に支配されて、事あるごとに有限であることを自覚させられる。

だからこそ、私はモデリングが好きだ。ゆえに、恵まれたリアルの肉体を持ちながら借り物のモデルでヘラヘラとしている奴らが、どうしても許せない。


いつもの木の下にホノカの姿が見当たらないことに気が付いたのは、翌日の0時過ぎのことだ。まだ暗い草原に向かった私は、彼女がいつも座っていた場所に腰を下ろして待っていた。
それから夜が明け再び日が沈んでもなお、彼女は現れない。おかしいなとは思ったが、そんな日もあるかと軽く考えて、私はそのままログアウトした。

しかし、その翌日もさらにその翌日も、結局ホノカは現れなかった。彼女が姿を消してから三日が経った頃、ようやく私は危機感を抱き始めた。何かあったのか。それか私が嫌われたのか。心当たりがないわけではないものの、正直そこはお互い様だったはずだ。いや、でも、もしかすると……。

こんな時になって、今更連絡先を交換しておくんだったと後悔をする。避けられているなら返事は返ってこないだろうけど、それでも何もできずに歯がゆい思いをし続けるよりはよっぽどマシだろう。

現実でもバーチャルでも、結局、人間の関係なんて希薄だ。好きか嫌いか。損か得か。糸が切れるか切れないか。だからこうなるのも仕方がない。そもそも、たまたま出会った変人に私は何を求めていたのだろう。

そんな風に自分を納得させながら、幹に体重を預けて、私は橙色に染まる偽物の空を眺める。

だから、ホノカが消えてちょうど一週間が経った午前0時の木の下で、相変わらずバグった動きをする彼女の姿を見つけたとき、
私は胃の奥の方から湧き上がるエネルギーに突き動かされるまま彼女に走り寄って、思い切りその顔をぶった。

「何も言わずに消えるなんて、どこ行ってたんですか!」

彼女の角ばった肩をひっつかんでグラグラと揺らすと、ぶった頭がバグった挙動で四方にブルブルと震えた。

「……」

それでも、ホノカは何も言わない。私が肩から手を離すと、彼女の頭と体はシミュレートされた重力を受けて、木の幹へともたれかかった。
ホノカは感情の見えないデフォルトの表情を張り付かせたまま視線を泳がせて、お互いに無言の時間が十数秒続いた。

切り出したのは、ホノカの方だ。

「ミサキ、海を見たくない?」
「は?」
「バーチャルじゃなくて、本物の海。目と耳だけじゃなくて、鼻と肌で感じられる場所」
「どういうことですか」
「青くて、カモメが飛んで、貝殻が散らばった砂浜があって――」
「ねえ」

不十分な説明に苛立つ私の返事を意に介さず、淡々とホノカは続ける。まるでお互いに別々のものへ話しかけているように、何かが決定的にズレているように。
私は半ば本能的に、彼女を引き戻さなければいけないと思った。

「答えないなら、もう二度と会いませんよ」

そうホノカに強く言い放つと、ようやく彼女の目がこちらを向いた。再び離れてしまわないように、私は繰り返す。

「そっちがそういう態度なら、私はあなたを今後ブロックします。ブロックには慣れてますから、私は躊躇しません」
「……」
「いいんですか?」
「……それは嫌」
「なら、答えてください。何かあったんですよね」
「……もちろん」
「じゃ理由を言ってくださいよ」
「できない。ここで答えるべきものじゃない」

ホノカはまどろむような口調で答えていたが、事情の説明だけははっきりと拒絶した。明確に、彼女の意思が滲んでいた。
少なくともコミュニケーションできる状態にはあるらしい。だとすれば。

「じゃあ、場所を変えましょう。プライベートルームに招待するので――」
「それも違う。変わってない」
「……なら、現実リアルでってことですか」
「うん」
「…………」
「嫌?」
「正直、怖いです。信用してるけど、信用しきれてない部分もあるので」
「そっか」
「でも……決めました。行きます。会いましょう。もちろん、体目的だったら許しませんけど」
「しないよ」

ホノカはそう否定して笑う。普段よりも力はなさそうだったが、一週間ぶりに聞いた彼女の笑い声に安心する。

「待合場所は海ですか?」
「一旦こっちの家に来て。そこから海に行って、全部話す」
「近いんですか」
「目と鼻の先」
「なら最初から海で……あーいや、もういいです。家ですね。分かりましたよ、住所を教えてください」
「チャットで送る。ユーザーID教えて」
「はい、私のは――」

そのまま流れでユーザーIDを伝える寸前、ハッと気がついて、私は思わず笑ってしまった。ホノカが怪訝な目つきでこちらを見る。

「何?」
「いや、何度も会ってるのに、ユーザーID教えるの今更なんだなって」
「……確かにね」

ホノカも納得したように頷く。不思議だ。危機感を覚えるほどにズレていたはずのホノカとの関係は、一瞬で過去一のシンクロっぷりに変わったように思えた。


翌日の朝、落ち着かないまま着替えてリビングに降りると、両親は既に仕事に出ていた。机の上にラップして置いてある目玉焼きの皿を見て一瞬悩んだが、結局それは冷蔵庫にしまって、「出かけてくる」と母親にスマホでメッセージを送っておく。そのまま玄関を出ようとしたところで、やっぱり思い直して、「ここに遊びに行ってくるから」と母親にホノカの家の住所を追加で送った。万が一のときもこれで何とかなるはずだ。

からりとした久々の日光を浴びて、家を出てすぐに汗がにじみ始める。半袖シャツと半パンは肌を一切守ってくれない。日焼け止めを買おうかと思ったが、勿体ないのでやめた。
なるべく日陰を通ろうと、スマホのマップを見ながら細い路地や公園を抜けて駅へと向かう。だいぶ大回りになったものの、まあいい。

駅に着いたところで、実家に行くのに手土産がないのはマズいなと思い始めて、売店で地元の商品っぽい12個入の饅頭を買った。無いよりマシだと自分に言い聞かせる。スマホに表示された残高を見て、小さくため息をついた。
改札を越えて、快速の電車に乗り込む。一駅、二駅と停車駅を経る度、町並みがはっきりと寂れていくのがよく分かった。
一時間ほど経ったところで、快速を降りてローカル線に乗り換える。ワンマン運転の車内はがらんとしていて、シートの真ん中に座ると何か間違っているんじゃないかと不安にすらなった。
気持ちを紛らわせようと窓の外を見る。電車は基本的に家々の横を走りながら、時折、草が生い茂り荒れた木々の合間をすり抜けるように進んでいく。最初の頃は比較的新しい家を見かけることもあったが、終点に近づく頃には瓦葺の平屋しか見当たらなくなった。
そして、その奥に海が見えた。


終点は改札辺りにわずかに屋根があるだけの小さな駅で、動画の中でしか見たことのなかった田舎の駅に降り立って最初に感じたのは、べっとりとした風と潮の匂いだった。想像していたよりも快適ではなくて、日差しも心なしか街中よりも強く感じた。
改札を抜けてホノカの家へと向かう。だだっ広い田舎道はアスファルトで無駄に舗装されているくせに、左右には草が伸び放題の空き地ばかりが広がっている。歩くうちに汗が出てきて腕で額を拭ったが、あんまり効果がなかった。ポーチからハンカチを取り出して拭くも、すぐにそれも汗まみれになった。これはポーチにしまうわけにいかない。私は脳内の買い物リストにビニール袋と換えの拭くものを追加した。さらに歩いたところで、リストに飲み物が追加された。
もっと予め準備しておくべきだった、と私は後悔する。そう、ここはバーチャルじゃなくて現実だ。汗はかくし、喉は乾くし、風だって清潔じゃない。

教えられた住所に大分近づいたところで、幸いにもコンビニを見つけた。広々とした駐車場には二台しか車が停まっていなかったが、ガラス越しの店内は明かりがついていて営業中のようだ。私は飛び込むように入口のドアを押す。店内は思っていた通りの涼しさで満たされていて、私は改めてコンビニの有り難みを感じた。

手早く買い物を済ませて喉を潤した後、誘惑に負けて買った制汗スプレーを体のあちこちに吹きかけながら進む。気休めとはいえ、一瞬でも涼しさを感じられるのはありがたい。備えがあるおかげか、かなり心に余裕ができたのを感じる。
ほどなくして、スマホが目的地へと着いたことを電子音で知らせた。緊張のせいか口元が乾いて、私はお茶を一口飲んだ。

じっくりと、指定された住所の家を確認する。石垣に囲われた木造の大きな瓦葺の平屋で、入口から玄関までの間には寂れた庭らしき空間が広がっている。家の縁側にある大きな窓は白いカーテンで遮られていて、中を窺うことはできそうにない。石垣に貼られた表札には知らない名字が書かれていた。不安になって再度スマホを確認したが、やはりこの家で正しそうだ。
私は意味もなく辺りをぐるぐると歩いた後、覚悟を決めて敷地へと入る。万が一の際はすぐに逃げられるよう、頭の中でイメージトレーニングを繰り返した。多分、大丈夫だ。

玄関の引き戸の横に来て、古いインターホンのボタンを押し込む。家の中で音が鳴ったのを確認した。中から人がこちらに歩いてくて、引き戸のガラス越しに人の姿が見えた。ガラガラと音を立てて、玄関の戸が開く。私は手が伸びてくるかどうかに集中力を注ぎつつ、いざという時に備えて足に力を込めた。

「あら、こんにちは! あなたがミサキちゃんよね?」
「えと、はい」

玄関から出てきたのは、自分の母親よりも少し年上――恐らく60歳前後の優しそうな女の人だった。茶色のショートヘアに銀色の眼鏡、体は痩せていて、声はホノカと明らかに違う。恐らく、ホノカのお母さんだろう。

「遠くからわざわざ来てもらって本当にありがとう。大変だったでしょう? どうぞ、上がって」
「あ、ありがとうございます」

特上の笑顔で招かれて、私は玄関に入った。靴を脱いで向きを揃えると、細長い廊下の先にある畳張りの和室に案内される。部屋の机の手前には座布団が敷かれていた。言われるがまま座布団に座るも、体が固くて正座が少し辛かった。ホノカのお母さんがお盆に湯呑と羊羹を載せて戻ってきたが、私が座布団の上で何度も座り直しているのを見ると途端に慌てて、

「ごめんなさい、すぐに椅子を持ってくるから」
「ああいえ、大丈夫です! 大丈夫ですから!」

椅子を取りに行こうとしたのを、すんでのところで私が止める。ここでずっと座っているわけでもないだろうし、そんなに動いてもらうのは申し訳なかった。

「そうだった、えっと、これ……」

このままだと気まずいので、ちょっとでも場を和まそうとして私は買ってきた饅頭を机の上に出す。すると、なぜか向こうが言葉に詰まってしまったようだった。

「……わざわざありがとう、いただくわね。せっかくだから、ミサキちゃんも一つどうぞ」

一瞬の空白の後、ホノカの母親は何事もなかったかのように元の笑顔に戻ると、箱の包装を剥がし、紙に包まれた饅頭を中から一つ取り出してお盆に載せてくれた。

「ちょっとあの子と話してきますね。すぐ戻りますから、ゆっくりしていてください」

そう言って向こうが立ち去る。出されたものを食べないのは失礼だと思って羊羹を一口食べるも、緊張か不安のせいかそれ以上の食欲が全く沸かない。私はお茶で残りの羊羹を無理やり胃に流し込むと、饅頭はこっそりポーチにしまって隠した。
部屋を見渡してみるも無味乾燥な和室に思うところもなく、落ち着かなさだけが募る。スマホを取り出してSNSのフィードを眺めようかと思ったところで、ようやく相手が戻ってきた。

「お待たせしてごめんなさい。ホノカの部屋まで案内するわね」

その言葉を聞いて私は違和感を感じると同時に、何となく状況を察してしまった。
和室を出て、さらに奥の部屋へと案内される。中に入ると、白いカーテンがかかった窓際に大きなベッドが置かれていて、そこに若い別の女の人が寝かされていた。ベッドの手前には椅子が置かれており、そこに60代くらいの髪の薄いおじさんが俯きながら座っている。その隣にはホイールの付いた金属製の細長い台が2つ立っていて、片方の上部には点滴の容器が3つ、もう片方の上部には液晶のディスプレイと小型のカメラが固定されていた。
反対側の窓際にも医者らしい白衣を来た男の人が座っていて、両手に黒いヘッドギアを持っていた。手前に座っているおじさんは見上げるように私の方を向くと、立ち上がって深々と頭を下げた。

「どうも。ホノカの父です。今日は遠くから娘のために来ていただいて本当にありがとう」 「……はい」
「いきなりこんな状況で申し訳ないね。ホノカも友達にくらい事前に言っとけばいいものを……でもまあ、本人が一番気にしとるだろうし、あんまり責めんといてやってください」
「あ、それはもちろん」

何と返してよいのか分からず、流れのまま相槌を打つ。ホノカの父親は顔を上げて私に微笑んだ。だいぶ疲れている笑い方だ。
私は長い髪の毛を下敷きにしてベッドに横たわる本物の・・・ホノカを眺める。痩せた顔についた目は閉じられていて、体格も思っていたよりずっと小柄だ。肌は不気味なくらいに綺麗で、カーテンごしに差し込む日差しを受けてほんのり白く光っていた。人形のように細く華奢な腕には点滴の管が深々と差し込まれ、ベッドの脇には尿らしき液体の溜まった袋が吊り下げられている。もはや生きているというより、保管されているという方が適切なような気がした。

私が呆然とホノカの体を見つめていると、視界の端でおじさんが医者に向かって手で何やら合図をするのが見えた。医者は立ち上がると、手にしていた黒色の大きなヘッドギアをホノカの頭にゆっくりと被せる。彼は外れないようにベルトを彼女の頭に巻いて固定し、最後にヘッドギアの横にあるスイッチを押し込んだ。すぐにディスプレイの電源が入り、一瞬のノイズの後に映し出されたのは――予想通り、草原のワールドで見慣れたホノカの不出来なモデルだった。

「驚いた?」

何度も聞いたホノカの声が、ディスプレイのスピーカーから出力・・される。私はそれが少しだけ残念だった。

「……本当の声じゃなかったんだ」
「私がこうなる前に録音された声がベースだから、一応本物と言えなくもない」

私が思わず呟いた言葉に、いつもの調子で返事をするホノカ。でも、彼女がいつもの調子・・・・・・を無理して演出していることくらい、コミュニケーションが得意じゃない私にだって分かる。

だから、今度は私から切り出した。

「とにかく、海へ行きましょうか。それが約束ですから」


くすんだ茶色の砂浜には空き缶やくすんだ海藻、折れた枝、魚の死骸が転がっていて、波は白と亜麻色の泡を浮かべながら潮騒を響かせている。海は黒ずんだ青に染まり、青空と入道雲の下に広がる水平線に沿って、細長いタンカーが風景に染みを作っていた。日差しは強く、べた付いた風が私とホノカの髪を大きく揺らす。駅から歩いてきた時よりもずっと強い潮の匂いが、ただただ鼻の奥を衝いた。

「綺麗な海でしょ?」

点滴とディスプレイ付きの車椅子に乗った彼女が、楽しげに私へ問いかける。ホノカの両親は気を使って、私達から離れた後ろの方に移動してくれていた。

「どういう回答を期待してるんですか?」
「意図なんかない。ただ訊いただけ。実際どう思う?」
「率直に言えば、綺麗ではないと思います。死骸も打ち上がってますし」
「なんでよ、それが綺麗なんじゃん。絶対にVRなんかじゃあり得ないでしょ」
「……綺麗かどうかとは関係ないと思いますけど」
「同じだよ。当たり前になってしまったら、それはもう綺麗じゃない。もちろん清潔という意味での綺麗はあるだろうけど、私が言ってるのはそういう綺麗じゃないわけ」
「なら、ホノカさんにとっての汚いものってなんですか」
「そりゃ、綺麗以外の全てに決まってる。凡庸、意思薄弱、中途半端……そういうやつ、全部」

吐き捨てるようにホノカは答える。その言葉にはあらゆる言外のことが含まれているような気がして、私はうまい返しを思いつけなかった。

「『生きてるだけでいい』なんて、とんだ欺瞞だよ。そう思わない?」

私が黙っていると、ホノカがぽつりと呟いた。

「……家族からしたら、どうやったって生きててほしいんじゃないですか」
「私は家族のためだけに生きてるんじゃない!」

キン、とスピーカーが高音を発する。ホノカはもう苛立ちを隠そうとしなかった。海に来て吹っ切れたのか、彼女の中で堰き止められていた感情が一気に溢れ出てくる。

「そりゃ、私だって生きられるなら生きたいよ。理由がないのに進んで死にたい人間なんかいやしない。でも、前できたことがどんどんできなくなる恐ろしさが分かる? 最初は手足のしびれでしかなかったのが、徐々に運動ができなくなって、段々立ち上がれなくなって、寝たきりになって、最後には口さえ開けなくなった! それでも脳だけは大丈夫だって思ってた。思ってたよ! だけど、もう薄々気付いてる。朝になって、気が付いたら夜になってることもあるし、記憶もどんどんあべこべになってるって。一日のどれだけが私として、人として生きていられるか、もう分からない」
「……」
「体については、先端技術のおかげでVR上にて多少動けるようにはなったよ。でも、その体はもう自分のものじゃなかった。整った頭も、首も、肩も、胸も腰も性器も脚も全部、どっかの企業の所有物だ。知らない奴らに規約で体の使い方を制限されて、ある日突然使えなくなっても文句を言えない。そんなの生きてるって言える?」
「……だから、自分でモデリングを始めたんですね」
「そう。パソコンも使えるわけないから、全部VR内で作った。出来は知っての通り、変な挙動はするし調整だって良くはない。でも、あれは私なんだ。作り方も、使い方も、壊し方も私が決められるんだ。誰にも指図されない、私だけの体なんだ……」

私は再び何も言えなくなった。所詮健康体でしかない私に、ホノカの気持ちは理解できない。できるはずがない。
一方で、私は自分の中で育んできた何かが音を立てて壊れつつあるのを感じていた。

――私にとってのモデリングとは、一体何だったんだろう?

3Dモデルは粘土だ。自由にこねて、好きなように変えられる。誰だってパソコン一つあれば簡単に作ることができる。現実とは違う。だから、自分で作り出そうとしない人間はゴミだと心の底から思っていた。そして、ホノカも私と同じ考えなのだとも。

でも、違った。ホノカにとってのモデリングはそんな単純なものじゃない。ホノカのモデルは洗練されてないし、細部に宿る神もいない。それでも、彼女にはそれしかなかった。自分が自分らしく生きるための最後の手段だった。だからこそ、借り物で満足する人間たちが憎くて仕方なかったのだと思う。

だとすれば、私は何なんだ。私は他の人間たちと、一体どれだけの差があるのか。何もかも、変わらないじゃないか。

そう考えると、今まで情熱を捧げてきたモデリングという作業そのものが、ひどくバカバカしく思えてきた。
私は自嘲気味に笑う。いや笑える。ああ、どうして私は今まで気が付かなったんだろう。

「ホノカさんの話を聞いたら、なんか、自分がバカバカしくなってきました」
「……それはどういう意味?」

ホノカが私に尋ねてくる。私は思っていることを素直に答えた。

「所詮、己惚れてただけなのかもって。私みたいな人間が多少モデリングができたところで、結局他の人間たちと変わらないって思ったんです。みんな好きなように生きればいいんですよね。できる範囲で、他の人のことなんか放っておいて。そう考えたら、もう私が頑張ってモデリングをする意味なんかないし、むしろ恥ずかしいって――」

そこまで言ったところで、私は、車椅子のディスプレイに映るホノカの顔が見たことがないくらいに怒りに満ち、今にも爆発しそうになっているのを見た。まずい。一瞬で膨張したその怒りの原因と矛先は明らかで、

「――――ふざけんなああああぁぁぁーーーーっっっ!!」

私が軌道修正をする間もなく、ぐちゃぐちゃに合成増幅されたホノカの怒号があたり一面の空気を引き裂いた。金属質な叫びが鼓膜を抜け脳内に突き刺さって、思わず両耳を手でふさいでホノカから顔を反らす。彼女の絶叫は数秒間に渡って続いて、ようやく終わってもなお、私の耳の奥で残響し続けていた。

恐る恐るホノカの方へ向き直り、耳から手を放す。規則的にさざめく波のそばでホノカは、穏やかな顔つきのままノイズ交じりの小さな慟哭を響かせていた。

「ミサキから、ミサキからだけは、そんな言葉を聞きたくなかった」

溜まっていたものを出し切ったのか、ホノカの口調からは爆発的なエネルギーこそ失われていたが、言葉の切れ目切れ目から感じられる私への苛立ちは際立っている。そんな彼女の声と失望を、私は鈍く痛む耳でじっと聞くことしかできなかった。

「自分らしく生きることにバカバカしさなんてあるわけない。病人を見て得ただけの安っぽい同情心で、どうして自分を簡単に捨てられるの?」
「…………」
「配布した自作モデルを流用するだけのバカを見ても、奴らにたかられても、ミサキは諦めなかったでしょ。私と一緒に毒も吐くし他人をバカにしてたけど、自分の信念だけは曲げてなかった。質を落としたり手を止めたりすることは絶対になかった」
「…………」
「私はそんなミサキを信じてた。だからここに呼んだ。人や世間に流されて意見を変えることしか脳がないただの粘土とは違う、本物の人間と最後に会いたかったから」
「…………」
「だから、自分から逃げるための言い訳に私を使わないで! 大人ぶって、周りと一緒に毒の井戸水を啜るだけの存在にまで落ちぶれないで! ああもう、だから、だから、結局私が言いたいのは」
「…………」
「最後くらい、私を一人にしないでよ、ミサキ」

寝たきりのホノカの体をじっと見つめる。いつの間にか耳の痛みもなくなって、単調な波の音だけしか聞こえなかった。
私はゆっくりと車椅子の隣にまで歩いて、そのまま砂浜の上に腰を下ろした。両手を背後について足を投げ出すと、スニーカーの間から砂が中に入ってきた。ザラザラとした感覚が気持ち悪くて、私は両足首を揺らして砂の上に靴を落とす。そうして靴下越しに直接砂へ触れると、ほんのりとした温もりで気持ちいい。結局は同じ砂なのに、感じ方が全然違う。きっとアナログとはこういうことなんだろうなと一瞬思い至って、いや意味が分からないなと考え直す。

「……余命はどれくらいなんですか?」
「そのうち」
「生き残る確率は?」
「知らない」

ホノカの回答はほとんど投げやりだ。ため息をついて、私はポーチから食べずに残していた饅頭の包みを取り出した。水平線を眺めながら紙を剥がして、現れた饅頭を勢いよく口へと放り込む。

「……わっかんないなあ」

拗ねた車椅子の横で食べる饅頭は、餡子の甘みと、わずかに塩辛い味がした。

novel