二十三区の外側で


この短編は 百合SS Advent Calendar 2023 の 二十三日目向けに出すはずだったものです。三か月遅れて気が付けば春になっていたので、舞台設定も春です。

遅れて申し訳ありませんでした。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。


『私は、春が嫌いです。だって、みんなが必死に幸せそうなフリをするだけの季節だから。夏の暑さも、秋の侘しさも、冬の寒さもない、薄っぺらい季節だと思いませんか?』

投稿日、去年の3月。インプレッション数1000、いいね数0。これは、私の恋活用SNSアカウントにおける最後の投稿になる。

二十代も終盤、独り身の虚無を感じつつも世間のマッチングアプリに乗れなかった私は、やや焦り気味で相手を探していた。とはいえ相手がそう簡単に見つかるはずもなく、「若者のマッチングアプリ離れ」「今は賢く出会いを探す」という情報に踊らされた末、手を出したのがSNSでの恋活だった。周辺情報を揃えて意気揚々と参加したはいいものの、調子がいいのは最初だけで、数日立てば嫌でも現実が分かるものだ。通知が鳴ったと思えば、ボットと業者アカウントからのフォロー通知。いつタイムラインを眺めても、体目当ての異性、かまってちゃんのメンヘラ、弱肉強食の自由恋愛都合のいいルッキズムを無条件肯定するバカばかりで気が滅入る。そんな中でも必死に相手を探さなければならない自分の市場価値・・・・に辟易として、やり場のない苛立ちを結晶化させた結果生まれたのが冒頭の怪文書だった。少ないフォロワー数がさらに減ったくらいには不人気の呪詛で、投稿後数日に渡って自己嫌悪に陥る羽目になったのは、今でもなおトラウマだ。

『どうせ人間なんてみんなしょうもないくせに、コンシャスぶるなよウジ虫ども』

自傷行為にも似た追い打ちの投稿――恨みがましさ満載のやけっぱちポエムを投稿する寸前、あまりの虚しさに、ふと我に返って下書きを消した。恥の上塗りを回避できたのは、当時の私の中でもトップ3に入るくらいの英断だったと思う。まあ実際は、投稿ボタンを押したものの何やらエラーが出て、とうとうSNSにも拒まれたらしいと投げやりになった結果というしょうもない話なのだが、今さら過程なんてどうだっていい。

フォローしていたキラキラアカウントを軒並みブロックし、代わりにジャンキーな人気・・アカウントたちでタイムラインの空白を埋め直す。不平不満を垂れ流すだけの生産性皆無な投稿を眺めながら、叩き売られていたビールの缶を開けた。ほら見てごらん、こんな直球なインプ稼ぎの投稿にバカは扇動されるけど、私はそんな程度の低い人間じゃないんだ。私のレベルになると、煽る側と煽られる側を観察して、その哀れで滑稽な生態をあざ笑いながら酒を飲める。心が汚れているとかアホはほざくだろうけど、私の心を汚したとしたらそれは私ではなく、この世の中だ。ウジ虫を増やした政治の責任だ。むしろ、素直で正常なのは私だけ……

そうやって自己正当化に努める自分すら心のどこかでバカにしつつ、ネットの狭い溝川を泳ぐ日々が続く。一日、三日、一週間と時間が過ぎていくごとに、当初の目的なんてとうに忘れ、炎上に群がるハエの観察が趣味になりつつあった。

恋活をやめて二週間が経った日曜日。目を覚ました私は、枕元からベッド下に転がり落ちたスマホを見て舌打ちをした。面倒ながらも腕を伸ばし、拾い上げたスマホに表示されたのは十二時過ぎの時刻。思わず口元から獣じみたうめき声が上がる。ああ、休日の半分がまた無駄になった。これもストレスまみれの現代社会、悪法を作り利権を蔓延らせている現政権のせいに違いない。

そんな風にして寝起き一番から心に憎悪の炎が灯ったところで、ようやく私は、久しく見かけていなかったアイコンが通知バーへ表示されているのに気が付いた。これはSNSのアイコンだ。しかも、確かメッセージを受け取った時の――

「えっ」

慌ててロックを解除し、通知をタップする。目に入ってきたのは『アユミ』というアカウント名と、寝起きでも分かるくらい簡潔な本文だった。

『はじめまして。投稿を見かけて、気になったのでDMしました。いろんな話題の切り口が面かったので、つい、、。一度お話しできませんか?』

いやいや、文面からしてスパムだろう。ほんと最悪。読み終えたところで、わずかな期待で上がっていたテンションが一気に奈落まで落ち、怒りの気持ちすら湧いてこない。恋活の文章はもう投稿していないし、当たり前といえば当たり前のことなのだけど。少しの可能性に期待してしまっていた自分がバカバカしい。

ため息交じりにスパム報告ボタンを押そうとして、指が本文の上を滑る。すると、改行されていて見えていなかった、本文の最後の行が表示された。

『ちなみに私も、春が嫌いです』

彼女と私の文通が始まったのは、こんな経緯からだ。あっという間に意気投合した私たちは、一か月目で実際に会い、二か月目で付き合うことになった。


大きな崩壊が訪れるとき、予兆として小さな異変が起こるはず……そんなことを考えつつ、昼下がりの公園で缶のサイダーを飲む。普段はサイダーなんて飲まないのに、近くのオンボロ自販機の中にそれを見つけた瞬間、なぜか買おうという気持ちになってしまったから。

公園の周りを見渡してみると、背の高い団地の建物で囲まれていて、さぞかし大勢の人間が住めそうだ。最盛期はどこも人で溢れていたのだろう。でも、公園には私と二人のおばあさんがいるだけで、今となってはとても喧騒を望めそうにない。まあ、おしゃべり好きなアユミがいたら多少賑やかになるんだろうな。あのおばあさんにも話しかけて、面白い話を始めたりして。

東京という名前を聞くと、人がごった返す華の都のようなイメージを抱きがちだ。けれどそれは二十三区の話で、それ以外の地域は地方都市と変わらないか、場所によってはそれよりも田舎だったりする。ましてや、高尾のような西端は都市から程遠い。畑の横を流れる小川に「都民のくらしを守る」と書かれた政治家のポスターが堂々と捨てられているくらいには。

そういえば、近くの八王子駅のトイレにも「注射器を捨てるな」という注意書きがあったっけ。それを見た旅行客が文字通り目を丸くしていたのは、とても印象的だった。きっとこの人はSNSに掲示の写真を上げるだろうし、「八王子は治安が悪い!」なんて書き込むのかも。

確かにそうかもしれない。でも、だからこそ心地がいいんだと思う。


「アユミ、その恰好は暑くない? もう三月なのに、なんでロングコートなの」
「いいでしょ、これが私のスタイルなの。それとも私が身長低いことに対する当てつけですか?」
「違うよ。そうやって話を逸らそうとしないで」
「へん、恰好っていうのは自由だからこそカッコいいんだよ。そっちこそ、なんか普通すぎる格好じゃん」
「どういう意味?」
「なんか、量産感がある」
「量産品だもん」
「そういう意味じゃなくってさあ……まあ、別にいいけど。あ、ほら、ここがお社」
「へえ、こんなところにあったんだ」
「駅からちょっと離れたところにある穴場なんだよね。マップでも拡大しないと出てこないくらいのさ」
「お社って穴場なのか」
「雰囲気もノスタルジックだし、願いも叶うって評判。ところで、お金貸してくれない?」
「お賽銭くらい自分で出してよ」
「私、デジタル決済主義者でさ。あ、『ずっとご縁』の十五円でよろしく」
「もう」

「にしても、私たち、いきなりこんな風になるなんてね」
「もうすぐ一年になるんだっけ」
「だねえ。夏だ秋だと思ってたら、いつの間にか冬も終わりそうだなんて。あー、今年もつまらぬ歳を取ってしまった」
「確かに。今思えば、子供の時の一年間ってさ、大人の三年間くらいの長さがあったよね」
「いやホントだよ! 大人なんて、仕事で一本企画立てるだけで半年があっという間。私がクソガキだった頃なんて、半年あったらいろんなことができたもんよ」
「へえ。例えば?」
「……学区の悪ガキ統一とか」
「発想が昭和」
「今時スケバンは流行んないかぁ」

「年末年始は仕事やら帰省やらで忙しかったじゃん? わーってなってたら、いつの間にか今年も一か月終わってたし」
「まさに光陰矢の如し」
「命短し恋せよ乙女、ってね。まあ、そういう意味では充実してた、かも?」
「どうして疑問形なの」
「私だけじゃ確証持てませんから。だから、改めてお伺いしようと思いまして」
「むぅ」
「そんな睨まないでよ」
「で、実際のところどうだったわけ? 私は一年間楽しかったけどさ、なんだかんだ、訊く機会なかったなって」
「うーん、そう言われても、うまく言語化できないっていうか」
「なにそれ」
「語り得ぬものには何とやらって言うでしょ」
「わけわかんないけど、良かったのか良くなかったのか、どっち?」
「そりゃ、良かった。と、思う」
「だったら、最初っからそう言ってよ。ケチ」
「お賽銭も貸したのに……」

「で、神様にはなんてお願いしたの?」
「それは秘密」
「ほら、やっぱケチだ」


十年よりもっと前、私が義務教育を受けていた頃はテレビがまだ主流だった。友達との会話もお笑い番組やブームの芸能人の話が多かったし、学校の先生も放送中のドラマの話をしていたのを覚えている。誰かと話をしたいときは、その人の好きそうな番組の話題を振ればいい。特にあんまり話したことのない男子には、アニメの話をしておけば何とかなったりした。

一方で、クラスにせよそれ以外にせよ、当時から話題にすることが滅多になかったものがある。それはニュース、つまり政治の話だ。笑顔でバラエティ番組について大勢が話をする中、不気味なほどにニュースや事件については無視されるのが常だった。

社会科を教える先生だけは雑談に政治の話を織り交ぜることがあった。私は新鮮さ半分、面白さ半分でそれを聞くのが好きだったけれど、クラスメイトや友達からの反応は総じて微妙だった。みんな口を揃えて「教えるのはうまいけど、思想がウザい」と言う。私はそこまで強く感じていなかったので、まあみんなが言うならそうなんだろうな程度の感想だけ持っていた。その先生のことは、卒業まで好きでも嫌いでもなかった。

……なんて、上から目線での書き方はよくない。白状します。当時、政治――いわば、社会の本質から目を逸らそうとする人たちを、私は心のどこかで小馬鹿にしていた節がある。国内ニュースや海外のニュースサイトを斜め読みしては、周りもいろんな「社会」に触れるべきだと思っていた。

でも、それは別に意識が高かったわけじゃない。斜め読みして得られた知識が、今でも役立っているとは思わない。当時の私は、ただ、そんな背伸びした自分が可愛かっただけだった。「社会」を見るべきと考えていながら、周りがなぜ政治を嫌がるのかという「社会」を見つめようとしていなかった。

今になって、私は友達たちの気持ちが分かる。おびただしい数の不都合な現実、希望なんてない未来。キラキラとした顔で利益を狙う狡猾な詐欺師たちに、理想が最優先で反するものすべてに敵対的な教条主義者、SNSで文句だけ流して承認欲求を満たす凡庸な人々。こんな「社会」の話をしたところで、何の面白みもない。周りの人たちはこういったことを直感的に理解していたから、器用に話題を避けていたんだと思う。

「というわけでね、プーチンは焦っているんだと思うよ」
「そうなのかな」
「うん。だから金正恩は軍需工場に全ベットしてるんだと思う。大量の物資と軍事技術を引き出せるチャンスだし。あの人は先代よりマトモそうだよね」

だけど、アユミはそうじゃない。初めて会った時、話の流れから、彼女はロシアと北朝鮮の外交戦略について私にいろいろと話してくれた。時折危なっかしい発言もしたけれど、世界情勢について一生懸命話そうとしてくれるのがよく伝わってきて、真摯な人なんだなと思った。

アユミは、どんな社会を経験してきたんだろう。どんな風に生きて、どんな風に考えてきたんだろう。いつの間にか私は、彼女のことばかり考えるようになっていた。

……これが恋ってものなんだろうか?


「私の好きなコーヒーの粉ってカゴに入ってる?」
「もう入れたよ。お昼はどうする?」
「私はこの冷凍ラーメンがいい」
「えー、冷凍? だったらカップ麺の方がよくない?」
「コンビニの冷凍ラーメンって美味しいんだよ。ちょっと高いけど、それだけの価値があるって」
「本当に?」
「これはマジだから」
「じゃあ、私もそれにする」
「後悔はしないと思う」
「なんか不安になるんですけど」

「それでさあ、甘いものも欲しくない?」
「んー、つまりチョコってこと?」
「児童労働の上にクソ行事バレンタインがないと売れないコオロギ以下の茶色の話はしないで」
「そこまで貶さなくてもいいじゃん……」
「とにかく、チョコ以外の甘いものがほしいの。コンビニ限定スイーツって今有名だし」
「じゃあ、そこのロールケーキとか」
「まさにそれ」
「いくつかあるけど、どれがいい?」
「選ぶのは任せた。ちゃんと大きいサイズの買っといてね。あ、クリームたっぷりのがいい」
「注文が多いなあ」


「……」

「…………」

「ねえ、神様……なんて、私みたいな人間がお願いする意味ないんだろうけど」

「私は春なんて望まない。暖かい季節は、家に籠って人を呪うので精いっぱいだから」

「だけど、そんな私でも、道端の吸い殻くらいの幸せを望んでいいのなら」

「ちょっとくらい、夢、見せてよ」

「そうしたら、他人様に迷惑をかける前にきっと、終わらせる気になれるから」

「…………」

「……」


今年も春がやってくる。汚れた川のほとりで人々が歌い、出がらしの愛を誓う季節。浮かれただけの陳腐な世間の中、アユミだけが、私にとって生き生きと感じられる唯一の存在だった。

「ねえ」

アユミが私を呼ぶ。私は道で少し息を切らして、彼女の次の言葉を待った。

「春って、あと何回やってくるのかな」
「……そりゃ、ずっとだよ」
「知ってるけどさ、いっそ来なかったらなあ。そんな世界があったら、きっと楽しいって思わない?」
「まあ、あり得ないけど、絶対楽しいと思う」
「でしょ」

回答に満足したのか、アユミは嬉しそうに笑っている。その声を聞くと、表情が自然と綻んだ。

想像力を働かせて、まだ見ぬ世界を思い浮かべる。永遠に雪が降り続く東京都。積雪十mとマイナス二十数度で電気も止まった極寒の中、代々木を越えて、しんと冷えた新宿を散歩する私。建設途中で放棄されたらしいマンションの脇を抜けて、雪で埋もれた線路の上を歩いて渡り、崩れた看板の商業ビルを写真に収める。落ちていたパイプを手に取り、ビルの壁に這う配管を順番に叩いて音を奏でる。大きな交差点の真ん中で大の字になって寝転びながら、消えた信号機を指さしてケタケタと笑い飛ばしてやる。人が雪へ飲まれて消え失せた空疎な街で、見渡す限り真っ白な世界を都庁の屋上から眺めたら――絶対、人生最後でも悔いがないくらい楽しいだろうな。

そうして白銀に塗りつぶされたビルの形を眼前に描こうとしたところで、頭上の高架を走る電車の品のない音が、無限に広がっていたはずの景色を掻き消して去っていく。妄想にふけるうち、いつの間にか自分のアパート近くまで戻ってきていたらしい。高架を抜けてから右手の袋を覗くと、せっかく買ったロールケーキがパッケージごと横倒しになって形が崩れてしまっていた。ああ、アユミに一言謝らなきゃ。

とりあえずパッケージの向きを戻すために袋の底に手を入れていると、指先に細長いものが当たるのを感じて、掌の上にそれを取り出してみる。なんてことはない、小さなプラスチック製のフォークだ。店員さんの配慮だろうか、本数はきちんと二本で、穏やかな陽光を受けてそれぞれがキラキラと光っていた。

「わあ、二人分だ」
「大きいのを買ったから、気を利かせてくれたのかな」
「嬉しい?」
「どうだろう。入れ間違えただけかも」
「ネガティブに考えない方がいいよ。世の中、考えてるよりかはちょっとだけポジティブだから」
「それは場所によるし、楽観的に考えるよりかは、悲観的な方が潰しが効くでしょ」
「効くけど、自分を追い詰める考え方だよね。生きてて楽しい?」
「楽しくない、けど」
「『アユミがいるから大丈夫』?」
「うん」
「そっか」
「そうだよ」
「じゃあ、もう春だ」
「春?」
「私たちが嫌いな季節。日本で一番しょうもない季節」
「うん」
「結婚しちゃおうよ、私たち。一つになれば、全部同じでしょ?」
「そうかもね」
「いつだって私は傍にいるんだよ……って、とってもえっちじゃない?」
「むう」
「いいね、その顔」

耳元でアユミがクスクス笑って、ちょっとだけくすぐったい。質量も吐息もないけれど――なんて考えが一瞬頭をよぎって、私はため息をついた。

だから、今更なんだっていうんだろう。

双対のフォークをしばらく眺めてから、それを隠すように手を丸めて包みこむ。それから二、三の呼吸をして、思いのまま一気に握り潰した。
わずかな抵抗の後、パキパキと存外軽い音が鳴る。じん、と右手の中に鈍い痛みが走った。そうして立ちすくむ私の隣をベージュの軽自動車が通り過ぎて、排気混じりの温い空気が吹き抜けていく。

私は側溝のそばに寄って、手の中でバラバラになったゴミの破片を両手で擦って落とした。こんな行為に深い意味があるわけないし、咎める人もまずいないだろう。なにせ、ここは二十三区の外側だ。

「フォーク、なくなっちゃったね」
「ウチにはあるでしょ、一本だけだけど」
「それってプロポーズ?」
「どうだろうね」
「ふふっ」

だから、私はこの場所が好きだった。これからのことは、まだ分からない。